花咲く家の物語 初演 新聞などの報道より

 

  1. マルセカンパニー「花咲く家の物語」97.6.5 アサヒグラフより転載
  2. 97.3.19 朝日新聞 より 障害者の生、温かく見つめ
  3. 障害者とは 家族とは?97/4/6 赤旗より転載
  4. 1997.3.13 朝日新聞 石川NOWより
  5. 弱者への想像力を働かせ愛情をもって人間を描きたい
  6. 98.6/17 民団新聞


97.6.5 アサヒグラフより転載

障害者演劇に一石を投ずるマルセ太郎の傑作喜劇    文◎村井健より

 障害者を描いた舞台といえば、まずだれもが思い浮かべるのば「奇跡の人」だろう。しかし、障害者演劇はまだこのほかにもいろいろある。たとえば、知的障害者を描いた「ザ・ボーイズ」(トム・グリフィン作)、視覚障害者を主人公にした「心の目には・・・」(ダッグ・ハバティ作)、「モ−リー・スウィニー」(ブライアン・フリール作)、聴覚障害者を描いた「愛が聞こえます」(高橋正囲作)などだ。いまや、障害者演劇は、現代演劇において独自の領域を形成しているといってもいいほどなのである。とはいえ、海外の作品に比べ、日本の作品は、いまイチ魅力に乏しいのも事実。どうしてもシリアス過多になったり、安易な「愛」の賛歌に終わるものが多いのだ。そうした日本の障害者演劇に一石を投じたのがついこの間、東京芸術劇場小ホール2で上演されたマルセ太郎作・演出の「花咲く家の物語」(4月23〜27日)である。

 舞台となるのは、知的ハンディを背負った六人の若者と一緒に生活をする杉田夫妻(三浦賢二、矢野陽子)の「若草の家」。その家を切り盛りする「お母さん」こと杉田陽子さんが乳がんになり、とうとう「若章の家」ば解散せざるを得なくなるというのがそのストーリーだ。

 金沢市の郊外にあった実在の「若人の家」をモデルにした舞台だが、これがじつに傑作なのである。

 なかでもおかしいのが、冒頭でのマルセ太郎の「若草の家」訪問シーン。マルセ得意のおサルや鳥の形態模写と、その合間に交わされる若者たち(永井寛孝、温水洋一、浅地直樹ほか)とのトンチンカンなやりとりに、観客が思わず破顔一笑しているうちに、ストーリーがトントン拍子に進み、杉田夫妻と若者たちとの怒るに怒れず、笑うに笑えない、さまざまなアクシデントやエピソードが描かれてしまうのである。

 北村想の「寿歌」の中に「不条理漫才」なる芸が出てくるが、まさにこの舞台での会話、日常が不条理漫才そのもの。しかも、その笑いがいつの間にか、健常者であるわれわれの「無意識の差別」をものの見事にあぶり出してしまうのだ。

 障害者を描こうとすれば、ともすれば「禁忌」に触れまいとして安全なことばを選び、公式ヒューマニズム的なものになりがちなもの。ところが、この舞台では、じつに闊達に、障害者同士、健常者と障害者の会話が交わされ、生き生きとしたものになっているのである。

「ぼく字書けんでも、計算できんでも、障害者やないんけ?」

「世の中には、本当のに障害者がおるんや。人を差別する奴、人を品物みたいに選別し、支配する奴。そう思わんか」 とは、この舞台の中のさりげないセリフの一つ。そういうセリフが、随所に織

り込まれている。

 しかし、もっとも感動を呼ぶのは、やはりラストシーンだろう。陽子さんの死を悼んで若者の一人が激しく打ち鳴らす太鼓の音が、言いようのない寂しさ、怒り、もろもろの思いをこめて響き渡るからだ。

 マルセ太郎といえば、一人語りの「スクリーンのない映画館」シリーズが有名。ついついマルセは語りの人と思いがちだが、この舞台を見れば、芝居づくりの腕前もなかなかのもの。たたずまいば質素。しかし中身は濃い。笑いとぺーソスが適度に入り交じり、見終わってジーンとくる舞台なのである。

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97.3.19 朝日新聞 より

 障害者の生、温かく見つめマルセ太郎、5作目の喜劇 「花咲く家の物語」

夫婦と6人の共同生活

「泥の河」の一人芝居など、独創的な話芸で知られるマルセ大郎が、自らプロデュースする五作目の喜劇「花咲く家の物語」に取り組んでいる。マルセは、一九九ゴー年の「黄番(たそがれ)に踊る」を皮切りに、「つるかめ荘は今日もワルツ」「枯れない人々」「真夏の夜の衷(ガな)しみ」と、老いや死二人婦の愛憎などを題材にデ八間性の奥に見え隠れする笑いを衷現してきた。

 今回は、金沢市郊外で知的障害者が共同で暮らしていた「若人の家」がモデル。小杉孝志・康子夫妻が、八三年から、二十、三十代の知的ハンディのある若者六人と、共同生活を送っていた。精肉業やコンニャク製造など、六人はそれぞれが仕事と自分の表札、部屋を持ち、小杉さん夫婦を親のように慕いながら、生活を共にしできた。

 地元・石川テレビのドキュメンタリー番組で「若人の家」を知ったマルセは、八八年からしばしば六人のもとを訪れ、交流を重ねてきた。しかし、九四年春、小杉康子さんが乳がんで亡くなり、「若人の家」は解散を余儀なくされた。

 「昨年正月、康子さんが残した冊子を読んで、衝動的に芝居にしようと思った」とマルセ。

 舞台では、小杉さん夫婦と六人の生活ぶりやマルセとの交流、さらに康子さんの死による六人の別れまでを、カラッとした笑いの中に包み込む。「ジメジメした舞台にしたくない。仕掛けて笑わせるのではなく、その人物の気持ちになりきって象徴的に演じれば、自然の笑いになる」

 マルセ自身、肝臓がんで手術を経験しているだけに、この作品にかける意気込みは強い。「体調は悪くない。舞台を通じてのメッセージは、能弁家がやると伝わりにくい。ひたむきに、朴納(ばくとつ)にやるだけです」

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97/4/6 赤旗より転載

マルセ太郎プロデュース喜劇 障害者とは 家族とは?

「気持ち良く笑って泣いてもらえると思いますよ」とマルセ太郎さん。作・演出の喜劇の第五作「花咲く家の物語」に挑んでいます。

 金沢市で、知的障害を持つ男性六人と一つ屋根の下で家族のように暮らす「若人の家」を営んだ小杉孝志・康子夫妻らの実話に材を得た物語。「一生懸命に実像を追おうとすると、芝居は実像にかなわない。実際を超えたところでどんな世界がつくれるのか」。模索の結果、虚構を交えた「花咲く家の物語」がうまれました。

 知的ハンディのある六人は、三十〜四十代。こんにゃく屋や精肉工場などで働きながら、夫妻を親のように幕っていました。この「家」の生活や「家」の支援者たちをめぐる日常、「家」が閉じられ、一周忌で再会するまでを描く九場の物語。六人を演じる俳優たちには、「子どものまんまの感性」を生かすようにした、とマルセさん。「家出」やけんかを通して責かな個性がぶつかりあい、象徴的に演じられる障害者のしぐさが、こっけい味や愛らしさをかもし出し、けいこ場には、汗と笑いがみなぎります。    

 劇中、「障害者」という言葉をめぐっていい争う場面。この「家」の支援者の「根本」がいい放ちます。T障害者といわれるけど、この「家」の者たちは、誰の障害にもなっとらん。人を差別する奴、選別し、支配する奴。こいつらがほんとの障害者やUと。ここには、論理の破たんがあるんですが」と苦笑するマルセさん。人として生きるための自由と平等の権利、政府の果たすべき義務…。強烈なメッセージが、せりふの一言一言にちりばめられ、笑いながら〃障害者とは〃〃家族とは〃と考えさせられます。でも「テーマにとりつかれて人物を表現するのではない」「人間を面白がって見るなかでドラマが成立する」とマルセさんはいいます。

 「この子らには逃げ場がないんだから」と営まれてきた「家」は、母親の病没後、閉じられました。この「家」と交流のあったマルセさん自身も舞台に実名で登場。「家」を訪ね、お家芸の形態模写でたっぷりたのしませます。

 映画の再現・批評の「スクリーンのない映画館」で知られるマルセさん。これまでの四つの作・演出の喜劇で、社会風刺を効かせ、劇場をわかせてきました。母親役の矢野陽子さんも永井寛孝、松山蕪、今野誠の各氏もその常連の出演者。それに父親役の三浦賢二さんや夫妻の娘を演じるマルセさんの娘の梨花さんら初出演組があいまじって生み出すこの第五弾。「生きることへの賛歌にしたい」とくり広げられるマルセワールドに期待がかかります。

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マルセ太郎 金沢で講演

笑わせ泣かせ「生」をかたる1997.3.13 朝日新聞 石川NOWより)

 独特の一人芝居で知られる芸人、マルセ太郎さん(63)が九日、金沢市のある会社の招きで講演した。「生きる」と胆題して、手術をした自分の肝臓がんのこと、死について、幸福とは、本当に生きるとは・…。いっぱいの笑い、軽妙なしぐさを識り交ぜ、一時間余りにわたってしゃべった。そして、四月一二日の金沢公演を手始めに全国で上演する、自ら書き下ろした芝居「花咲く家の物語」についても。そのさわりを再現してみると。(横路武文.編集委員)

来月上演の芝居も

 マルセさんは大阪の出身。高校卒業後、東京へ出で役者をめざしたが、コメディアンに転身。浅草演芸場などで仕事をしていたが、サルの形態模写で世に出た。その後、黒沢明監督の「生きる」など十数本の映画を、全偏丸ごと語る「スクリーンのない映画館」を舞台で演じ、作家の色川武大氏(故人)や永六輔氏らから絶賛され、今日の地歩を築いた。最近は全国を回って演じており、「芸人魂」という著書(講談社)もある。

 講演は、二年半ほど前にわかった自身の肝臓がんのことから。右半分を切除する手術をし、今日まで再発を三回繰り返しているが、「体の中の石を取る手術の前の検査でわかった。右を取ってもらって帰ってきたらまたすぐ入院だと言う。で、家族に聞いたらしゅようのようなものができているからだ、と」。「ハッキリ言わないので、一緒に病院へ行ってくれたおいに電話で、『がんなのか』と聞いたら『ああ、そうだよ』とこれがいともあっさり言うんです」

 「そりやないよねえ。だって、がんだったらもっとこう、ドラマチックにねえ、言ってもらわんと。映画やテレビなんかでもそうでしょう」。ここで聴衆はドッと笑った。

 四時間がかりの手術だった。「体力が落ちて、足があわれなほど細くなってきまして。すると、なんか、死がこわくなくなった」。「ところが、少し元気になってくると、またこわくなってくるんですねえ」

 知り合いの女優さん四人が見舞いに来た。部屋が狭いので九階の喫茶室へ案内した。「もう必要がなかったツエをベッドの下から取り出し、必死な姿で歩き、せきをしたり。だって遠い所を一日つぶして来てくれているのに、この通り元気になりました、んじゃあ申し訳ないでしょ」(笑い)「酒を飲んじゃいかん、と言われていまして、もちろん、いまもアルコール類は口にしないんですが、百パーセント、アルコールの注射を背中にブスッと打たれるんですよ。いかんといって、打つ。どうなっでんです?」(笑い)「女房が病室から『ほなら行くで』と帰りかけて、いったん病室を出てまた戻って来て、いきなり僕にキスするんです。女房は若いときから色気と無縁で、どちらかというと男っぽい。そんなキスなんかそれまでしたことなんかなかったんでずが。涙がとまらなかったですね。ああ、おれが死んだらこの女を不幸にするんだ、と思いました」

 そしてマルセさんは言った。がんはこわい。いつかは死ぬ。でも死へ向かって準備ができる。女房に見られたら困る手紙も処分できる。明日になれば、という明日がないから、きょう、この瞬間を懸命に生きる。死を考えるから生きていることの意味がわかってくる。それまで意識しなかった生きていることのありがたさ、うれしさがわかってくる、と。約二百人の聴衆は笑い、泣き、そして考えた。

 最後に訴えたのは、実話にもとづく芝居「花咲く家の物語」。金沢市の夫婦が、知的障害者の六人の男性を「若人の家」に引き取り、ともに暮らした。だが、妻が亡くなり、十年続いた家は閉じざるを得なくなり、「こどもたち」はそれぞれに散った。マルセさんは何度もそこへ通い、彼らとつきあい、取材して芝居に仕上げた。「めそめそしたものではなく、むしろ喜劇にした。生きることへの賛歌にしたい」。そう聴衆に話した。金沢市文化ホールで昼夜公演の後、富山(十三日)、福井(十四日)、そしで、東京、大阪、名古屋、広島公演と続く。

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医療従事者向け雑誌(Cheer up Message)より

弱者への想像力を働かせ愛情をもって人間を描きたい

家族を題材にした〃喜劇〃を公演

 この四月から、舞台「花咲く家の物語」を公演しています。この物語は、金沢市に一九八四年、小杉孝志、康子夫妻の手によって生まれた「若人の家」における、知的障害者とよばれる六人の男子と夫妻との、家族としての暮らしを題材に、私自らがプロデュースしたものです。

 私がこの「若人の家」のことを知ったのは、一○年ほど前のこと。石川テレビ制作のドキュメンタリー『ここに家族あり」のビデオを、担当の女性ディレクター赤井朱実さんに送ってもらったのがきっかけでした。

 わたし自身、独演会などの公演を通して金沢には以前より馴染みがあったので、以来交流が始まり、金沢公演の折に何度か若人の家を訪問するようになりました。一般に、福祉のレベルが先進国のなかでも低いといわれる日本ですが、体の不自由な人に対しても、ただ施設で保護するだけ、という現状だと思います。

 しかし若人の家には、そういう人を施設に隔離するのではなく、地域社会のなかで人々とともに当たり前に生活する暮らしがありました。草むしりや雪かきなどの地域住民による共同作業でいっしょになって汗を流したり、地元のさまざまな行事にも参加したり、またバスに乗れぱ、誰ともなく自然に声をかけあったり、というような光景が、ごく当たり前のものとして見られたのです。

 ところが、九四年に康子さんが病気で亡くなられたために、残念ながら若人の家は、一○年間で閉じざるを得なくなってしまいました。

 この話を芝居にしようと思ったのには、特別な理由などありません。若人の家の一○年の歩みを綴った一冊の本を、一気に読んで感動し、何のためというのではなく、ただ衝動的に「これを芝居にしたい」と思い立ったのです。しかも、めそめそしたものにはしたくない、むしろ明るい喜劇にしたいと強く思いました。

 喜劇というと、日本ではやや偏った解釈が定着してしまっていて、ただ単に面白おかしくやること、と考えられがちです。でも本当の意味はそうではないと思うのです。愛情をもってちゃんと人間を描くと自然と笑えてくる、それが喜劇であり、そんな芝居を書きたいと思っています。

笑いが与えるのはあたたかい愛者

 私は以前から、「スクリーンのない映画館」と題する独り舞台を演じてきました。約二時間ほどの舞台ですが、独特の話芸によって観客を実際に映画を観た気分にさせるというものです。ファンの方にも支えられ、始めてからそろそろ一一〜一二年になりますが、公演をきっかけに、全国各地の多くの人々とのつながりができました。その活動が軌道に乗った一九九三年くらいからは、芝居も書き始めました。今度の「花咲く家の物語」でちょうど五本目になります。

 私の作品について皆さんによく言っていただくのが、「あたたかい感じがする」という感想です。私は喜劇しか書きませんが、自分では人間を紋切り型に描かないようにしています。芝居を観て笑いながらも、登場人物のやりとりにあたたかい愛着を感じられるのは、やはり喜劇だからこそ、なのです。

失われつつある想像力と幸福感

 私は常々、「成功者からは本当の意味でのドラマは生まれない」と考えています。失敗した者や弱者のなかにこそ、それぞれのドラマがあるのです。「男はつらいよ」の寅さんなんかが良い例ではないでしょうか。美女と出会ってなんとか手に入れようとするけれど、結局は手に入らない。それでもまた、次から次へと惚れていく。そこに人々は共感して、あたたかい気持ちで笑うことができるわけです。そこで大事なのは、〃想像力〃なんです。現代の世の中は、想像力、とくに弱者への想像力が欠如しているように思います。若者がシルバー席に平気で座り、長い足を投げ出す。新幹線を降りるとき、空き缶などを座席の網ポケットにつっこんだままにする。お年寄りや、次の駅から乗る人などへの想像力が欠如しているんですね。

 弱者への想像力と同様、もう一ついまの日本で失われつつあるのが、「幸福感」ではないでしょうか。どうしても、成功することイコール幸福だと考えてしまいがちですが、けっしてそうではないように思います。今後ますます進行する高齢化により、退職して一○年以上は生きる時代となるのは確実です。職業における〃立場〃から離れたとき、それまでに何を自分が蓄積してきたかで、幸福になれるかどうかが決まるのでしょうが、大事にすべきは「家族」。人は何のために働くのか、幸福を感じるのはどんな時かを考えると、やっぱり家族なんですよね。家に帰るとどういうわけかホッとする。それが家族のあたたかさなのだと思います。

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98.6/17 民団新聞

在日同胞役者 マルセ太郎の視点 障害者の豊かな個性キラリ

被差別体験に根ざした社会的弱者への眼差し

 知的障害者というと、どうしても暗いイメージがつきまとう。街角で偶然出会い、思わず目をそらしてしまったという人もいるかもしれない。健常者の性(さが)としてはどうしても哀れみの目を向けがちだ。演劇にするにはあまりにも重たいテーマといえる。日本籍の在日同胞役者・マルセ太郎氏があえてこのタブーに挑戦したのは興味深い。

「花咲く家の物語」(マルセ太郎作・演出)を東京・新宿の紀伊國屋サザンシアターで観た。一九九三年以来、七本目の上演。石川県金沢裏町の知的障書者施設「若人の家」を取材にした実話だ。九四年までの十年間この木造二階建てで三十歳前後の六人の青年が共同生活を送っていた。マルセさんは「若人の家」に密着取材したテレビドキュメンタリーに感動し、芝

居にしようと思いつく、台本を書くにあたっては初めから喜劇にすることを念頭に置いていたという。安易な告発仕立てや感傷を排除したいという主張が貫かれているかのようだ。

 舞台は、自費で「若人の家」を運営する小杉孝志夫妻と六人の青年の共同生活のなかで起こる”家族”としての交流と葛藤を描く。自由な発想で生きる知的障書者の言動は随所で観客の笑いを誘った。

 たとえば青年たちの憧れの的、マドンナが「若人の家」を訪ねてきた時に交わされる蛍を巡っての会話の一場面。

 「百合子さん、蛍はどうして光るのでしょうか」

 「考えたこともなかったわ。ね、勝くんわかる?」

 「暖房や。夜は寒いんで暖房つけとるんや」

 会話はすすみ、死んだらなんに生まれ変わりたいかとなる。

春男「わしはライオンがいい。王様や。わしのこといじめられん。いままでわしをいじめた奴、みんな食うてやる」

 マルセさんが等身大の障害者像を描こうとしたら結果的に喜劇となった格好だ。本当は、障害者が健常者には無い豊かな個性の持ち主であることを言いたかったに違いない。

 一九三三年、大阪猪飼野生まれのマルセさん、高校卒業後の一年まで在日同胞多住地区で育った。当時、ちゃんとした就職先などあるわけはなく、いやいやながら同胞の経営する自転車部品の町工場で働いた。単調なプレス作業の合間にふと魔がさしたのか、プレス機で中三本の指と親指をつぶす。このときから人前で手を示さないのがマルセさんの癖となったという。

 一九五四年、新劇俳優を志して上京。芸名の由来でもあるマルセル・マルソーの舞台を見てパントマイムに興味を持つ。このころ家族揃って日本国籍を取得している。マルセさんは当時のことを多く語らないが、やむを得ない事情にせまられてのものだったようだ。

 マルセさんは九六年、小杉康子さんが生前書きためていた「若人の家」の十年の歩みをつづった遣稿集「時には昔話を」読み終えて泣いた。この時、衝動的に「若人の家」を芝居にしようと思い立ったのだという。こうした社会的弱者に注ぐ温かい眼差しを思うとき、どうしてもマルセさんの人生遍歴が二重に映ってしまう。(K)


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