枯れない人々
脚本:マルセ太郎
調停委員 大山志津子
調停委員 今村仙之助
申立人 吉川恵美
恵美の二番目の夫 吉川恒雄
恵美の三番目の夫 神田寛斎
愛人の男 加納義隆
元大学教授 大山敬二
審判官 谷川 実
プロローグ
調停委員 大山志津子 今村
申立人 吉川恵美
大山 私たちは調停委員でして、これから、いろいろあなたにお話をうかがいますからね。
わたし大山志津子です。よろしくね。
今村 今村仙之助です。堅くならないで、楽になさってください。
大山 ご職業は飲食店営業とありますが、どんなお店ですか。
恵美 スナックです。カラオケおいて。
大山 規模はどのくらい?
恵美 え?
大山 お店の大きさ。
恵美 七坪です。
大山 使ってる人は何人いらっしゃるんですか。
恵美 調理をやってもらってる人と、でもこの人、清さんというんですけどね、清さんの故郷(いなか)東北で しょう。青森なんです。だからどうしても味つけが塩っぱくなるんで、お客さんの評判悪いんですよ。
今村 吉川さん、余計なこと言わなくていいんです。聞かれたことだけ返事をして下さい。
恵美 でも先生、楽にしなさいと言ったじゃないですか。
今村 楽にというのはね、
大山 今村さん(たしなめる)。吉川さんね、細かいことはおいおい聞かせてもらいますからね。
こちらの質問には要点だけを答えてください。その調理の方と、ほかには。
恵美 アルバイトの女の子です。でも良子ちゃん、今月一杯でやめるんです。
大山 (ぴしゃりと)今はその調理の人と二人ね。
恵美 はい。
大山 離婚なさっても、経済的には自立していけるのね。
恵美 でも主人が持ち出していくんです。競馬に。
大山 いや今のことではなく、ご主人と別れたあとはちゃんとやっていけますね。
恵美 はい、どうにか。
大山 相手方、つまり今のご主人の職業は、運転手と書いてありますが、タクシーですか。
恵美 いえ、トラックです。でもよく休むんです。すぐ、疲れたとか、腰が痛いとか、
大山 ご家族は、お子さんは。
恵美 男の子一人です。小学校五年生。哲雄っていうんです。
大山 今のご主人との子?
恵美 いえ、前に別れた主人との子です。
大山 離婚のご経験があるのね。
恵美 (急に泣き出す)
大山 ごめんなさい。とがめているのじゃないのよ。お子さんの親権という問題もありますからね。
この申し立てでは、夫の暴力とありますが、そんなにひどいんですか。
恵美 もう、しょっちゅうなんです。何かというとすぐに手を出すんです。
大山 例えば、どんなときですか。
恵美 競馬に負けて帰ってきたときとか。
大山 あなたにあたるのね。
恵美 そうなんです。すぐ殴るんです。(泣く)
大山 これは相手方の立場になって聞くんですけど、あなたを責めるのではないのよ。
できるだけ公平にお話をうかがうためにお聞きするんですが、あなたが何か、ご主人の気にさわることを したり、言ったりするのじゃないの。何もしないのに手を出すの。
恵美 福神漬けなんです。
大山 福神漬けって、あの漬け物のこと?
恵美 はい。うちの人、カレーが大好きなんです。それであたし、カレーをよく作ってやるんですけど、福神漬 けを切らして、買ってくるのを忘れたんです。そしたら、「福神漬けのないカレーなんか食えるか」。皿ご と投げつけるんです。(泣く)
大山 他にはどんなときに?
恵美 お店やってるとね、どうしても帰りがおそくなるんです。十一時半に閉店なんですけど、馴染みのお客さ んがねばってると追い出すわけにもいかないんです。うちなんか、お馴染みさんだけでやってるような店 ですからね。つい、夜中の一時、二時になってしまうんです。そしたらもう(泣く)。年中、体のあちこち あざだらけなんです。寝てた子どもがおびえるし、アパートでしょう。もう隣り近所に、あたし恥ずかし くて、恥ずかしくて(泣く)。
今村 だめだ、そんな男は。吉川さん、あんたの離婚の申し立ては立派に通りますよ。
すぐ別れてしまいなさい。なんなら傷害罪で訴えることだってできるんですよ。
大山 今村さん、相手方の言い分もあるでしょう。
今村 問題になりませんよ。そんなのは。
大山 今村さん、どうなさったんですか。えらく興奮して。いまさら言うのも何ですが、わたしたちはあくまで 調停していくのが役目で、結論は判事さんにお任せするんでしょう。
恵美 判事さんって、裁判があるんですか?
大山 いえね、正式には審判官というんですが、わたしたちがこうして調停した記録を見て、どうしたらいいか 結論を出されるんです。(たしなめて)今村さん、少し落ち着いて下さい。
今村 私はね、妻に暴力ふるう男にはがまんならないんですよ。どんな理由があったって絶対許せません。
そんな暴力男は、ねえ、吉川さん。
恵美 でも、優しいところもあるんです。競馬で勝ったときなんか、子どものみやげを買ってくれるんです。
今村 そんなことでごまかされちゃダメですよ。バクチをやるような男は見込みはありません。夜中の一時二時 まで店で一所懸命働いて帰ってきた妻に、ご苦労さんって、いたわってあげるのが夫婦というものじゃな いですか。それを殴るなんて、そりゃ病気。ダメ。
大山 今村さん(手で制す)
今村 暴力をふるうのは、最低の男だよ。
恵美 愛なんです。
今村 愛?
恵美 あの人、やきもち焼きなんです。あたしが店のお客さんと浮気してるんじゃないかと思ってるんです。
わかるんです、あたしには。
今村 そんなのん、愛というのじゃないよ。
恵美 そうなんです。うちの人がそういってるんです。愛があるから殴るんだって。うちの人、口下手なんです。 だから手が先に出るんです。でも殴ったあと、やさしいんですよ。悪かった、と私をしっかり抱いてくれ るんです。
大山 いくらあやまったからといっても、また叩くんでしょう。
恵美 はい。
今村 ばかばかしい
大山 ね、吉川さん。あなたご主人の暴力が耐えられないので、離婚の申し立てをなさってるんでしょう。
恵美 分からなくなっちゃったんです。だって、こちらの先生が、うちの人のことを、あんまりダメだとかバカ だとか言うもんですから。(今村に)うちの人そんなにバカではありませんよ。
今村 ダメだとは言ったけど、バカとは言ってません。
恵美 さっき言ったじゃないですか。
今村 バカバカしいと言ったんです。
大山 吉川さんね。あなたご主人のことを、あの人って言ってたのが、途中からうちの人って変わってきました ね。気がつかなかったでしょう?もう少し期間をおいた方がいいんじゃないの。こんなことは何もあわて て決めることはないんですよ。
恵美 (ちょっと考える)やっぱりあたし別れたいんです。別れます。
大山 そう、じゃ話しをすすめますね。あなたの離婚の意志をご主人に伝えましたか。
吉川 とんでもない、ダメですそんなこと。
大山 でもね、いずれ伝えなくてはならないでしょう。それにお互いの話しがこじれてくれば、家裁の方から調 査官がいくようにもなるんですよ。(今村に)とりあえず呼び出し状を出すようにしておきましょうか。
恵美 あっ、大変。
大山 どうしたんですか。
恵美 あたし、今日の呼び出し状、おいてきちゃったんです。もって出るつもりで玄関のところにおいたまま。 どうしよう。ここに来てることバレちゃうわ。
吉川恒雄入ってくる。
手に呼び出し状をもっている。
恒雄 恵美、これはどういうことだ。
恵美 あんた!
恒雄 お前何、悪いことをしたんだ。
今村 吉川さんですか。奥さんは何も悪いことなさったんではないんです。
恒雄 じゃ、何で裁判所に呼び出されなきゃなんねえんだよ。
今村 ここはそんなあれじゃないんです。家庭裁判所なんです。まあまあ、楽にして下さい。
事情を説明いたしますから。
大山 吉川恵美さんのご主人ですね。わたし調停委員の大山志津子と申します。
今村 同じく今村仙之助です。
大山 今回吉川恵美さんが、離婚の調停を申し立てられたのです。
恒雄 離婚?
大山 あなたとの婚姻関係を破棄したいとおっしゃってるんです。
恒雄 恵美、ほんとかお前。
恵美 ごめんなさい。
恒雄いきなり恵美を殴る。
恵美、大山の背後に逃げ込む。
今村 警備の人を呼びますよ。
恒雄 ケイビでもアワビでも呼びやがれ。手前ら、人の夫婦のことで余計な口出しするんじゃねえよ。
大山 あなたそうやって、奥さんに暴力ふるっていいと思ってるんですか。いくら夫婦でも、奥さんにも人権が あるんですよ。
恒雄 何が人権だ。手前ら小難しい理屈ばかりこねまわしやがって、何がわかってんだよ。暴力、暴力って、
そんじょそこらのチンピラの暴力と一緒にするんじゃねえよ。恵美、こっちへ来い。
大山 (恵美を抱いて)行くことないわよ。
恒雄 余計なこと言うな。恵美、くるんだ。心配すんな、もう殴りやしないよ。
恵美 おずおずと近づく。
恒雄 恵美の肩をだいて
恒雄 泣くな。愛してればこそじゃないか。俺だって、お前を殴りながら心では泣いてるんだ。
今村 演歌だな。(つぶやく)
恒雄 何か言ったか。
今村 いや、美しいな、って言ったんです。
恒雄 当たり前だよ。おれ達は愛し合ってるんだ。(恵美に)いつも言ってるじゃないか。世界中で愛してるのは お前一人なんだ。おれが浮気をしたことあるか?
恵美 でもあんた、すぐに!
恒雄 言うな。殴ったのは俺が悪かった。でもよ、お前が可愛いからなんだ。分かるだろう。
泣きじゃくりながら、恵美うなずく
恒雄 いつまでも泣くんじゃないよ。さあ、おれ達の歌を唄おう。
音楽入り、二人唄う
♪水にただよう 浮き草に
同じさだめと 指をさす
♪言葉すくなに 目をうるませて
俺をみつめて うなづくお前
♪きめた きめた おまえと 道づれに
恒雄 お前たちも唄ってくれよ。
(四人揃って)
♪きめた きめた おまえと 道づれに
F・O
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一 場
大山、今村、始業前の談話
大山 奥様が亡くなられてから、もう何年になりますか。
今村 去年三回忌をやりました。
大山 あら、もうそんなになるかしら。
今村 いや、わたしらの年になると、一年一年がどんどん早くなりますよ。
その内わたしも婆さんのところにいきますよ、ハハハハハ。
大山 何をおっしゃるんです。まだまだお若いじゃありませんか。もうおいくつになります。
今村 ぞろ目の六十六ですよ。
大山 それじゃまだまだ。再婚なさってもいいくらいよ。
今村 バカなこと言わんでください。再婚だなんて、ドキッときましたよ、ハハハハ。(うれしそうに)再婚だな んて、大山さんも人が悪い。まったく何を言い出すんですか、ハハハハハ。
大山 ずいぶんうれしそうですね。
今村 (手をふって)また、またぁ。からかわないで下さい。
大山 でも奥様がいらっしゃらないと、やはりお寂しいでしょう。
今村 いや、もう馴れましたよ。長男の家族と一緒ですから、結構にぎやかにやってますよ。
大山 そうですか、いいですね。お孫さんは?
今村 長男のところは男の子と女の子の二人ですが、もう高校生になりましたから、こんな年寄りを相手にして くれなくなりました、ハハハハハ。その代わり、娘のところはまだちっちゃいですから、たまに遊びにく ると、おじいちゃん、おじいちゃんて。
大山 可愛いでしょう。
今村 娘の亭主が良くできた男でしてね。
大山 何をなさっているんですか。
今村 かたい仕事です。
大山 やはりお役所?
今村 いしやです。
大山 ?
今村 石屋ですよ。墓石の。固い仕事です。
大山 ああ、なるほど。固いお仕事ですね。
今村 いやいや、そういう意味ではありません。安定した商売と言ってるんです。先祖代々からの家業で、お寺 さんと結びついてますから。くいっぱぐれはないということです。
大山 うらやましいですわ、お幸せそうで。
今村 何をおっしゃるんです。大山さんだって、ご主人が立派な大学の先生じゃないですか。
大山 もうやめました、定年で。
今村 あ、そうですか。
大山 うちは男の子一人でしょう。それも九州で所帯を持ってますから、夫婦二人切りの、殺風景なものですよ。 (腕時計を見て) そろそろ始めましょうか。(書類を見て)離婚の申し立てですね。
今村 神田恵美さんです。
退場して呼びにいく。恵美、今村戻ってくる。
恵美 (恥ずかしそうに)お久しぶりです。
大山 ああら、あなただったの。
今村 ああそうか。どこかで見た方だなと思ったんですが、思い出しました。
恵美 (大山に)すみません。
大山 何もあやまることないわよ。どうぞお掛けになって。
今村 楽にしてください
恵美 (腰掛けて一気に)ダメなんです。あたしって、どうしてこう男運が悪いんでしょう。いくら一所懸命がん ばっても、(泣き出す)どうしてなんでしょうか。やっぱりあたしがバカなんでしょうか。男をみる眼がな いんですよね。あたしだって、何も好き好んで離婚なんかしたくないんです。今度もそうなんです。愛し ていたんです。これは本当なんです。それがもう、イヤッ! あたしより一コしか違わないのに、歯がな いんですよ。歯医者にいって入れ歯をつくってもらいなさいって言うんですけど、行かないんです。歯の ない口で、ぺっちゃくっちゃ、ぺっちゃくっちゃ、なめるみたい物を食べてるのをみると、もうあたし、 上げそうになって。
今村 ちょっと、ちょっと落ちついて下さい。そういっぺんにしゃべらないで。
話しがさっぱりわからなくなっちゃいますよ。
恵美 すみません。あたし頭が悪いので、うまく話せないんです。この間も、子どもの学校によばれて、
今村 とにかく一度黙って下さい。こちらから順序だってききますから。
大山 たしか前に離婚の申し立てを取り下げましたよね。
恵美 ああ、あれは終わったんです。別れました。今度は違うんです。
今村 (恵美に)姓は神田さんになってますよね。前のときは、
恵美 吉川です。
大山 あ、そうそう、吉川さんで。どうも話しが変だなとおもったんです。前の旦那さんは、たしか暴力亭主 だったんでしょう。あれ、元のさやに納まったんじゃなかったの。
(笑いながら)わたしたちも唄わされたけど。何でしたっけ、あの唄は。
恵美 「道づれ」です。
大山 そうそう。「決めたァ、決めたァ」感動的でしたわよ。夫婦愛なんだな、と。
恵美 でもダメだったんです。同じこことくり返しで。あたしを殴っては、水に漂うですから、あたしも飽き ちゃったんです。あたしだってそう漂ってばかりいられませんよ。
今村 えらい!強くなりましたね。だからわたしが言ったじゃないですか。暴力を振るう男は絶対ダメ!
しかし、あの暴力男がよく別れてくれましたね。
恵美 (わっと泣く)女ができたんです。
大山 よかったんじゃないの、かえって。
今村 そうですよ。手間がはぶけたと考えればいいんですよ。
大山 (書類をみて)それから一年後に、いまのご主人と再婚なさったんですね。
神田寛斎、ずいぶんと古風なお名前ね。
恵美 絵描きなんです。
大山 なるほど。でもこれ本名でしょう。
恵美 はい。だから、生まれながらにしてぼくは画家なんだ、と言ってるんです。でも全然売れないんです。
たまに上野公園にいって、似顔絵描いてるんですけど、怠け者で。飲んでばかりいるんです。
大山 ご主人に、離婚の意見を伝えましたか。
恵美 はい。でも、ぼくは別れるつもりはない、君を愛してる。いくら言っても印を押してくれないんです。
大山 こちらから呼び出し状を出せば、来てもらえますか。
恵美 今日一緒に来てるんです。
大山 あら、そうなの。じゃ、入ってもらいましょう。(今村に)いいでしょう?
今村 (立ち上がって)あの、別室で待ってもらってる人がそうなの?
恵美 はい。
今村、上手へ出ようとする。
神田寛斎はいってくる
寛斎 惠美さーんぼくがいたらないんです。恵美さんにばかり苦労かけて。
これからぼくも、そのお、反省してですね、少しでも
今村 まあまあ、落ち着いて。楽になさってください。
大山 神田寛斎さんですね。年齢四十八歳とありますが、これは間違いありませんね。
寛斎 どうしてですか?
大山 いえ、念のため。
寛斎 やっぱり老けてますか。
大山 (笑いでごまかし)そんなことありませんけど、若くは見えませんね。
恵美 アッハハハハ、先生、そんな気を使わないで下さい。
寛斎 先生、若いか老けてるかは外観ではありません。魂ですよ。(胸を叩いて)魂の若さこそ大切です。
それが芸術する心ですよ。
恵美 あんた、いいかげんにしなさいよ。先生、いつもこれなんです。あたしはこれに騙されたんです。
何が魂の若さよ、中おちしか食べられないくせに。魂、魂、そんなに魂が好きなら、お盆にだけ出てきな さいよ。
寛斎 (悲しげに)恵美さん。
恵美 何よ、その顔は。ええ、じれったい。男でしょう。悔しかったら、(寛斎の手首を取り自分の頬にあて)
ぴっしゃと叩けばいいじゃないの。前の亭主なんかね、あたしがこんな態度に出たら、顔中はれ上がった わよ。 もうっ! あんたに、恵美さんなんて言われると、体中じんましんが走るのよ。
(寛斎が鼻くそほじくってるのを見て)また鼻くそをほじくる! もう、イヤッ。こうやって側にいて、
あんたと同じ空気をすってるのもいやなの、息はかないで!(目の前の空気を払いのける仕草)
大山 まあまあ、少し冷静に話し合っていきましょう。ご主人の神田さん、寛斎さんとお呼びしていいですか。 寛斎さんは、奥さんの離婚申し立てに応じる気持ちはありませんか。
寛斎 はい、僕は離婚には反対です。哲雄くんのためにも。これから中学生になる大事な時期です。哲雄くんは すっかり僕になついて、(泣き声)「パパ」って呼んでくれるんです。
恵美 ずるいわよ。あんたはそうやって、すぐ子どもをだしにする。哲男はあたしの子どもですよ。
今村 惠美さん、聞かれたときにだけ発言して下さい。
恵美 すみません
大山 ね、恵美さん。夫婦というのは、縁あって結ばれたのでしょう。そう、事を荒立てないで、お互いに建設 的でなくちゃ。この申立書によると、「婚姻を継続し難い事由」として「その他」とご自分で書いていらっ しゃいますが、具体的にどういうことがあるのですか。
恵美 ともかくいやなんです。この人のやることなすこと全部です。鼻くそほじくって、柱にこすりつけたり、 歯のない口で、にやっと笑われると、もうー。
大山 歯は結婚する前からなかったのでしょう。それは事由になりませんよ。鼻くそは、あらためてもらえばす むことですし。
寛斎 それはやめます。約束します。
恵美 先生、理由は何でもいいんです。とにかく別れたいんです。
大山 困りましたね。相応の事由がないとねえ。歯がないというのはダメですね。
今村 暴力を振るうことはないんですか。
恵美 ありません。そんな元気があるもんですか。
大山 あるいは相手方の不貞とか。
恵美 ふてい?
大山 つまり寛斎さんに愛人関係の人がいる。
恵美 アハハハハ、この人に愛人? そんなバカな、そんなものずきな女がいるものですか。
大山 でもあなたは、寛斎さんを初めは好きになったんでしょう。
恵美 そう言われればそうですよね。だから余計腹がたつんです。
やっぱりあたしがバカだったんです。男を見る目がなかったんです。
今村 あんたは惚れっぽいんだ。
恵美 そう、そうなんです。前の亭主に年中暴力を受けてたでしょう、もう暴力をふる男はこりごり、やさしい 男の人だったら、そう思ってるところにこの人が現れたんです。絵を描いているときいただけで、あたし 憧れたんです。いつもカウンターの隅で、一人ちびちびやってる孤独な姿を見て、やっぱり芸術家は違う なあと思ってたんです。他のお客さんみたいに、エッチな話しはしないし、よくいるんですよ。すぐにさ わりたがるお客さんが。この人はカラオケもやらないで静かに飲んでるのが恰好よく見えたんです。どこ かに陰があって、それがあたしの母性本能をくすぐるんです。ある時、お店が暇でほかにお客さんがいな いときに、あたしに話しかけてきたんです。
回想風になる
寛斎 ママ、僕ゆうべ、ゴッホの夢を見ちゃった。よく見るんだ、この頃。
恵美 あたし感激しちゃったんです。
今村 ゴッホの夢を見たということにですか?
恵美 そうよ。世の中にはこんな純粋な人がいるのかと思ったんです。芸術家というのは、見る夢まであたした ちとは違うわ。そう思ったんです。
今村 夢の話しでしょう?
恵美 ええ、
寛斎 恵美さん、俗物にはわかりませんよ。
今村 俗物?
寛斎 はい。さあ、続けましょう。
恵美 (寛斎に)ゴッホは夢の中でどうしたの。
寛斎 僕を激励してくれたんですよ。寛斎、大切なことはデッサンだよ。目先の流行に惑わされるな。
ただひたすらに、デッサン、デッサンあるのみ。そして人間を描くんだ。
恵美 まあ、すてき。
寛斎 僕はゴッホしか認めない。僕が初めて、ゴッホの本物を観たのは、高校の頃だった。
「アルルの平野」「黄色い家」「ひまわり」。僕の体はふるえたね。
恵美 あたしなんか絵のことはよく分からないけど、でもゴッホという名前くらい知っているわよ。
ほら、あれが好きなの、夕暮れの畑でさ、夫婦でお祈りしてるの。
寛斎 それはミレーです。
恵美 そうだったかしら。わたし、ごちゃごちゃになっちゃった。恥ずかしい。
寛斎 いいんです。ミレーも悪くありません。ゴッホもミレーの影響をうけていますからね。
恵美 ねえ、ゴッホの本物をみた時、どんな風に感じたの。
寛斎 目の前の絵をみた時、(自分の足先をみた)ゴッホはここに立っていたんだなと思ったんだ。
恵美 ?
寛斎 だって、ここに絵があるんですよ。この絵を描くためには、ここにゴッホが立っていたという事になるん じゃないか。そう思ったら、見えぬゴッホの存在が僕の体に乗り移って、僕の体は感激でふるえたんです よ。金縛りにあったみたいにそこを動けなくなったんです。
恵美 そうね。そういうことになるわね。まあ、何てステキなことを言うんでしょう。やっぱりプロの絵描きは、
寛斎 画家と言った下さい。
恵美 画家、はちがうわ、あたしたちと。(感嘆からさめて)でもさ、だったらどんな絵を観たって描いた人がこ こに立っていたということになるんじゃないの。
寛斎 (大声で)そこが違うんだ。ゴッホだけなんだよ。ほかのどんな絵だってどこかで描かれたものが、ただこ こに運び込まれたとしか感じられない。だが、ゴッホは違う。ゴッホこそは魂の芸術家なんだ。いまこう して話してるだけで、そのときの感動がよみがえって、僕の全身を走るのだ。
ビンセント・ヴァン・ゴッホ。
惠美 何だか知らないけど、寛斎さんの話しを聞いている内にあたしも感激しちゃったわ。それからこの人は、 情熱的にゴッホについてたくさん話してくれたんです。自分の耳を切り落としたこととか。
寛斎 傷つきやすいゴッホは、何度か精神病院に入り、三十七歳でピストル自殺を遂げたんだが、実際に絵 を描いた期間はたったの十年だよ。たったの十年。その十年の間、まるで明日にでも死ぬかのように、
ゴッホは大急ぎに急いで描き続けたんだ。千七百枚もの絵を。
恵美 千七百枚!
寛斎 いや、数が問題なのじゃない。生命(いのち)が燃え尽きるまで描き続けたことなんだ。そしていいかい。 彼が生きてる間に、一枚の絵も売れなかったということなんだ、一枚も。
恵美 可哀想。その間、生活はどうしてたの?
寛斎 弟のテオが面倒みてたんだ。テオは画商、つまり絵を売買する商売をしていた。やさしいテオは、兄に心 の負担をかけさせまいと、将来売れたら金が入るんだから、これは共同出資なんだよ。兄さんは絵を描く、 僕は金を出す。そういって、売れそうもないゴッホの絵を預かり、生活費を援助していたんだ。ええ、何 と美しい話しじゃないか。
恵美 やさしかったのね。そのテオという人は。でも、一枚も売れなかったのね。
寛斎 そうなんだよ。それがどうだい、百年もたった今では。俗物どもが利殖を目的に、何十億という値で売買 されているんだ、ゴッホは。ほら、いたじゃないか。大昭和製紙の会長だった斉藤某(なにがし)という 男が。ゴッホやルノアールやを買い入れて、自分が死んだら、それらの絵を棺に一緒に入れて燃やせと いったバカな奴、しかも、そのことをあるタレントが自分の金で買ったものをどうしようと勝手じゃない かと恥ずかしげもなく言ったんだ。こいつらが芸術を冒涜してるんだ。
恵美 ほんとにひどいわね。だからあたし、昔から金持ちは嫌いなの。
寛斎 そう! ママは金なんかに毒されていない。ママは僕みたいに店の売り上げなんかならないような客を いつも優しく笑って迎えてくれている。
恵美 わたしはお客さんが好きなの。売り上げになろうとなるまいと、お客さんが楽しんでいるのを見ると嬉し くなるのよ。
寛斎 そうだ、ママはゴッホのひまわりだ。
恵美 (うれしそうに)あたしが。どうしてひまわりなの。
寛斎 燃えている。生命(いのち)そのものだ。太陽のように激しく燃えているんだ。僕はね、ゴッホが生きて る間に、彼の絵を一枚も買おうとしなかった、フランス人やオランダ人やベルギー人を憎む。
恵美 あたしも憎む。
寛斎 だから、僕は自分の絵が売れなくとも、平気なんだ。俗物どもに分かってたまるか。
恵美 あたしが買ってあげるわ。寛斎さんの絵は高いの。
寛斎 いや、そんな。ママには差し上げますよ。あっそうだ。ママ、モデルになってくれませんか。
恵美 モデル?
寛斎 お願いします。ママを描きたい。
恵美 でもあたし、おばあちゃんよ。オッパイはちいちゃいし、お尻はたれてるし、恥ずかしいわ。
寛斎 モデルって、何も裸になるとは限ってませんよ。服を着たままで。
恵美 あっ、そうか。何だ。あたしバカね、モデルと言われて、すぐ裸になるのかと思っちゃった。
アッハハハハ。ポーズまでとっちゃって、ああ、恥ずかしい。
寛斎さん、あたしの身体(からだ)想像してたでしょ、
寛斎 外観ではありません、内なる美ですよ。(思いつめて)きっとママのヌードは美しいはずだ。
恵美 あっ、ちょっと待って。表しめてくるわ。あたしね、貧乏な人好きよ。
回想が終わって
大山 そうだったの、とてもドラマチックだったのね。いい出会いじゃないの、感激しちゃったわ。
ね、今村さん。
今村 どこがですか。
大山 だってそうじゃありませんか。絵の話から恋が生まれるなんて、ステキじゃありませんか。わたしは絵の ことはよく分かりませんが、「ゴッホが生きてる間に彼の絵を一枚も買おうとしなかった、フランス人や
オランダ人やベルギー人を憎む」、感動的なことばだわ。ほんとにそうよ。
恵美 それが違うんです。
大山 何が違うの?
恵美 それがこの人の手だったんです。あたしそれに騙されたんです。
寛斎 恵美さん
恵美 あんた、黙ってて。引っ越ししてきたとき、この人あんまり荷物はなかったんですけど、本だけはやたら とあったんです。あるとき、本棚を整理して何気なく眺めたら、「炎の人」って本があったから、手にとっ てぱらぱらと読んでみたんです。三好十郎という人が書いたお芝居なんです。その中に書いてあったんで すよ。そっくりそのまま。
「あなたが生きている間に、あなたの絵を一枚も買おうとしなかった、フランス人やオランダ人やベルギー 人を。私はほとんど憎む。また、あなたを愛そうとしなかった、フランスの女とオランダの女とベルギー の女とを、私はほとんど憎む。」
「ほとんど」がぬけてただけでそのままなんです。
寛斎 しかし恵美さん、僕は自分のことばだとは、一言も言いませんでしたよ。それに会話の中でいちいち出典 を明らかにするのは、わずらわしいじゃありませんか。
恵美 何いってんのよ、白々しい。
大山 でも恵美さん、ゴッホがここに立っていた、なんて言葉はグッときたわよ。
今村 そう、あれはわたしも感心しました。なかなか思いつくものではありません。
恵美 それもなんです。有名な安野光雅という画家が言ったことなんです。
大山 そうまの
恵美 お店のお客さんから聞いたのです。それがわかってから、この人の何もかもが嫌になったんです。
(寛斎に向かって)あんたはね。何よ。朝起きるたびに「僕、またゆんべもゴッホの夢をみちゃった」
もう飽きたわよ。バカみたい。たまには、宝くじにでもあたった夢をみたらどうなの。
ゴッホ、ゴッホ、肺病やみみたい。ゴッホは生きてる間に、一枚も売れなかった。僕の絵も売れない。
売れないところだけ似たってしようがないでしょう。第一あんた、売ろうったって、売る絵がないじゃな いの。あたしと一緒になって一年近くになるのに、一枚も描いてないじゃない。
寛斎 恵美さん、絵は描けばいいってものじゃないよ。僕はいま壁にぶちあたっているんだ。
その壁をぶち破ることができたら、
恵美 だったら解体屋さんにでもなりなさいよ。店に来る山本さん。あの人解体屋さんだから雇ってもらえば。 壁なんかバリバリいくらでも破れるわよ。
寛斎 恵美さん、ひどい、ひどいよ(泣き顔)
恵美 しょっちゅう似顔絵描きの仲間を呼んできては、酒喰らって、訳のわからないことばかり言い合ってるん です。みんなよく似てるんですよ、理屈ばっかり。同じようなベレーかぶって、偉そうにパイプくわえて。 線がどうのこうの。線だよ、あの浮世絵の線を見たまえ。いや光だ。そうじゃない色だ。それが光じゃな いか。いや絵は構図だよ。対象のどこを切り取るか、これが問題だ。ああ、この手で自然をつかみ取りた い。もう絵がわからなくなった。あほっ! こんなことを一晩中。あたし気がおかしくなるわ。
寛斎 君だって結構楽しそうだったじゃないか。
恵美 あんたの友だちだと思うからよ。仕方がないでしょう、つくり笑いでもしなきゃ。
寛斎 (にこにこしながら)ありゃ、つくり笑顔ではないよ。心から楽しそうに笑ってた。僕はそんな恵美さんが 好きなんだ。(鼻くそをほじくる)
恵美 鼻くそ!
寛斎 あ、ごめん。(机にこすりつける)
恵美 どこにつけるのよ、もうっ!
寛斎 僕だけではない、みんなも言ってるよ。君こそ、われらが貧しき画家たちのマドンナだって。
恵美 ただ酒飲みたいだけでしょう。
寛斎 そんな、それはないよ。それはちがうよ。
恵美 どこがちがうの。
寛斎 君は、貧乏な人が好きだと言ってるじゃないか。
恵美 貧乏はいいわよ。あたしがお金のこと言ったことある? あんたはね、貧乏じゃない、貧乏くさいのよ。 貧乏くさい! 青森でいうと、ビンボウたらし。分かるのこの違いが。
大山 (感嘆して)分かるわよ。そう。そうよね。貧乏と貧乏くさいはちがう。恵美さん、偉いわね。
恵美 (うれしそうに)あァら先生。いやですよ、からかって。
大山 ううん、からかってなんかいないわ。ほんとに感心してるのよ。あなた、変わったわね。
初めてあったときの印象からくらべると、全然変わったわ。
恵美 そうですか? 自分では相変わらずバカな女だと思ってますけど、
大山 とんでもない。あなたはバカなんかじゃないわ。正直なのよ。自分の気持ちを偽れないのよ。でもね、
恵美さん、これ迄にうかがった話しでは「婚姻を継続し難い事由」ということになりにくいですよ。
恵美 でも、あたしを騙したんですよ。
大山 あれは騙したことになりませんよ。寛斎さんのくどき文句でしょう。男女間に交わされる口説き文句に、 法的責任は生じないんです。
恵美 でたらめ言ってもいいんですか。
今村 例えばね、恵美さん。あんたのことをきれいだ、って言っても、これは騙したことにならないの。
恵美 (間)この人、どうしてあたしのこと、意地悪言うんですか。
今村 わたしは意地悪言ってませんよ。
寛斎 言ってるじゃないですか。恵美さんのことをきれいと言っても、騙したことにならない、それじゃまるで 恵美さんが。恵美さんはきれいですよ。
今村 だから騙したことにならないでしょう。
大山 今村さん。ちょっと今村さんのたとえ話しはおかしかったですよね、わたしから謝ります。
恵美 いいんです。どうせあたしはブスなんですから(泣く)。
今村 悪かった、悪かった。もう泣かんでください。恵美さん、あんたの気持ち分かりますよ。夫婦のどっちか が相手を嫌になるのは、誰から見ても納得するような事由なんか、なかなかないんですよね。嫌になりだ したら、もう何がなんでも嫌になる。それこそあんたが言ってるように、同じ空気をすうのがイヤッ。歯 のないのもイヤッ。(寛斎に)寛斎さん、あんたどうして、入れ歯いれないの。保険でやってもらえば、
一万二千円くらいでできるんですよ。幸福になるためにはもっと努力しなくちゃ。
(恵美に)でもね、恵美さん。あんたの気持ちは十分分かるけど、ここでは通らないんですよ。
書類つくって審判官に見せなくてはなりませんからね。歯のないのがダメ、鼻くそがダメ。そんなことは 書けないでしょう。何かない?書類に書けるようなことが。何でもいいですから。
大山 今村さん。
今村 いやいや、そういうことです。生活費は入れてくれますか?
恵美 まあ、自分の食い扶持くらいは。
今村 暴力はふるわない。あんたの子どもを虐待するとかはないんですか。
恵美 そんな事はありません。よく可愛がってくれます。
今村 でもイタズラした時なんかダメって叩くでしょう?
恵美 いいえ。
今村 全然?
恵美 はい。
今村 異常性格ではないよね、少し変わってるけど。(今村の言うことにいちいち恵美うなずく)
恵美 そんなことじゃないんです。もう嫌ったら嫌なんです。
今村 じゃあ、性格が合わないとしときましょうか。
大山 ちょっと、今村さん。何もそう無理矢理事由を探し出すことはないじゃないですか。
今村 そうでもしなきゃ、いつまでたっても書類はできませんよ。
大山 そんなに書類が大切なんですか。じっくり調停していくことが、わたしたちの仕事ではないのですか。
後の判断は審判官にお任せして。
今村 今度の審判官さんは谷川さんでしょう。あんな人に分かるんですかね、夫婦間の機微が。
大山 仕方がないでしょう。システムなんですから。
今村 わかりました。じゃ、どう進めるんですか。これでは、調停不調ということになりますよ。
大山 決めつけないで下さい。
寛斎、意を決して
寛斎 僕には分かってるんです。恵美さんが僕と別れたがっているわけは。
大山 ?
今村 ?
寛斎 あいつです。絶対言うまいと思ってたんですが、恵美さん、僕には分かってるんですよ。
恵美 何よ。
寛斎 恵美さん、あいつだけは止めなさい。あれは、たらしだ。みすみすあんたが不幸になるのを、
僕は見てられない。先生、恵美さんに男ができたんです。
恵美 ちょっとお、男ができたなんて、いやらしい言い方しないでよ。
今村 これはちょっと問題ですよ。妻の方に不貞があるというのは。
恵美 不貞じゃありません。不倫の愛です。
今村 同じことですよ。
大山 恵美さん、ほんとのことなの。だとすると、この申し立ては通らないわよ。
今村 そりゃダメです。場合によっては、寛斎さんから相手の男に、慰謝料の請求だってできるんですよ。
やりますか?
寛斎 そんなこと、僕しませんよ。ぼくだって、恵美さんの幸せのためなら、いさぎよく身を引きます。
そのくらいの矜持はありますよ。しかしあいつはいけません。あの男だけは。
先生、十五歳も年下の男なんです。
大山 そんなに?
寛斎 ええ。しかもそいつは口から先にうまれたような男で、それこそ恵美さんはもて遊ばれてるんですよ。
恵美 失礼ね。あんたに何がわかってんの。それから、さっきから、男、男って言ってるけど、ちゃんと名前を 言いなさいよ。
大山 (恵美に)その人のお名前は?
恵美 加納義隆さんです。
大山 次回の調停日にきてもらいましょう。いいですね。
恵美 はい。
今村 これで書類ができます。
F・O
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