PD手帳
発掘・日本人シンドラー 布施辰治
(2000年2月29日放送)
死からユダヤ人を救ったドイツ人、そして日本植民地統治下で朝鮮独立運動
烈士の弁護を引き受けた日本人がいた。日本人でありながら日本の総督政治を
批判した布施辰治。彼は独立運動烈士の家族に直接手紙も出したという。
キムボンヨン(キムシヒョン烈士の息子)
“日本人がただで弁護してくれたという話は聞いた”
民衆の立場に立ったという理由だけで2回も投獄された布施辰治。
3月1日独立運動記念特集PD手帳『日本人シンドラー布施辰治』。
〔コマーシャル〕
第2次世界大戦の時ナチはアウシュビッツをはじめ各地に強制収容所を建て
ました。死の工場と呼ばれたそこでナチは数百万人のユダヤ人を虐殺しました。
そんな中で千百人あまりのユダヤ人がオスカー.シンドラーというドイツ人の実
業家によって劇的に救出されました。私達にも日本帝国の侵略という苦痛の時
代があり、従って日本人は支配者と抑圧者の姿としてイメージされていました。
しかし、最近私達にもシンドラーのような人物が存在していた事が明らかにな
りました。布施というある日本人の朝鮮訪問は、1923年の当時、日刊紙のトッ
プニュースになるぐらい注目され、歓迎されました。日本人弁護士の布施辰治、
果たして彼はどのような人物だったのでしょうか。
皆さんは布施辰治という名前を聞いたことがありますか?近代、日韓関係で
取り上げられた日本人の名前のほとんどは帝国主義の植民地政策に賛成し、先
頭に立った名前です。しかし、日本人として、そして弁護士として、日本帝国
主義の植民地統治を猛烈に批判したたけではなく、朝鮮の独立運動に敬意を払
った発言により日本検事局の取り調べを受けたこともあった日本人がいました。
その人こそ布施辰治です。
日本帝国時代のほとんどの日本法曹人達が帝国主義の先兵としての役割を果
たしたのに対し、布施弁護士は朝鮮の民衆が植民地暴政下で経験する苦痛に、
より大きな関心を示しました。従って、朝鮮独立運動史の様々なところに彼の
努力が見られるのですが、韓国内では彼についてほとんど知られていません。
2000年3.1独立万歳運動記念日を迎えて朝鮮人に格別な愛情を持っていた布
施辰治の行跡を韓国と日本で同時取材しました。
1923年9月1日東京を中心とした日本の関東地方で大地震が発生しました。
被害規模も大きく、およそ24万人の死亡者が発生し、38万の住宅が失われる
など歴史上例のない大惨事でした。都市はあっという間に修羅場になりました。
このような混乱の中で朝鮮人が日本人に虐殺される事件が起こりました。犠牲
になった朝鮮人の数はなんと6千人、では彼らが殺害された理由はなんだった
のでしょうか。
キムヨンボム教授 デグ大学 歴史学
“地震が起きて日本人が大きな不安と心理的恐慌に陥った時、一種の噂が広
がったのです。この地震をチャンスに朝鮮人が井戸に毒をまいたとか、束にな
って暴動を起こし日本人を殺そうとしているという根拠のない噂、つまりデマ
が広がって日本人の武装グループが無差別に朝鮮人を殺害したのです”
暴動陰謀説が広がる中で数多い朝鮮人がいわば、日本人自警団によって殺さ
れたのです。それは在日朝鮮人を襲った二重の災難で、彼らにとって関東大震
災は天災ではなく人災だったのです。
森正先生コメント@
“こういうデマは当時の警視庁からですね。流されたんだというのがですね。
今、日本の歴史学者の間では大体定説になっているんじゃないですかね。”
ところでその凄まじい大虐殺の現場に日本人の弁護士布施辰治がその姿を現
します。
森正先生コメントA
“大きなオートバイ、サイドカーですか。そこに乗ってですね。あの混乱の中
を運転手に“あっち行け、ごっち行け”言ってですね。あの東京中を回って、
そして震災に紛れて警察が悪いことをしているかどうかとか、“自分の家に来
たらなんか食べ物あるよ”とかですね。一生懸命あの被害に会った人達に“頑
張れ”というアピールというか…。”
布施辰治の娘が書いた記録によると、関東大震災の後、朝鮮人を始めとした
大勢の被災者達が彼の家を訪ね、布施は食べ物を提供するなど積極的に彼らを
助けたといいます。そして布施は特に朝鮮人大虐殺に非常に怒りました。
“考えれば考えるほどあまりにも残酷な悲劇です。朝鮮同胞の6千人は殺害
されました。彼らの魂は死んでも死にきれない無念さでいっぱいです”(布施の
関東大震災被災同胞追悼会演説より)。
彼の悲しみと怒りはそこでとどまることなく、直接謝罪原稿まで書いて朝鮮
の新聞社に送りました。朝鮮人に深く謝罪し、自分の祖国である日本を激しく
非難した布施辰治。しかし、朝鮮民衆のための彼の活躍は始まったばかりだっ
たのです。
3.1独立運動が失敗におわり、非暴力独立運動に限界を感じた反日闘士達は
1919年満州で武装テロ団体の義烈団を結成します。これによって日本がテロに
敏感になっていた1923年、‘上海爆弾事件は無政府主義者達の大陰謀だ’とい
う記事が日刊紙に大きく書かれます。そして、その主謀者として当時日本で無
政府主義運動をやっていた朴烈と恋人の金子文子の名前が挙げられます。彼ら
の拘束はおかしなことに関東大震災がきっかけだったのです。地震発生の二日
後の1923年9月3日東京警視庁は朴烈と金子らを連行します。激怒した日本人
から保護するという理由でした。
イホリョン講師 ソウル大学 韓国史学科
“‘このままだとお前ら(朴烈と金子)はみんな殺される’という事だったの
です。それで日本の警察は朝鮮人の関係者達をみんな連行します。最初は予備
拘束で軽い取り調べを受けるのですが、その中で爆弾のことなどが出てきて状
況が急進展するのです”
その後から朴烈は予想もしていなかった事件に巻き込まれるのです。当時、
朴烈は抗日武装テロ団体である「黒友会」の機関誌「フテイ鮮人」の発刊者で
した。また最初の在日朝鮮人の思想団体である「黒涛会」を組織し、彼自身が
発行と編集を担当し「黒涛」という機関誌を発刊したこともありました。朴烈
は日本警察のブラックリストに載っている人物の一人だったのです。保護とい
う名目で連行されていた朴烈はいつのまにか関東大震災の際に計画された、朝
鮮人団体による不敬な事件の主謀者になっていました。爆弾テロを計画してい
たということでした。しかし、それはこれといった証拠も実体もない事件でし
た。
イムンチャン会長 国民文化研究所
“取り調べの中で爆弾に関する規則に違反したということになったのです。
つまり、爆弾または銃などを不法で手に入れたのではないか...”
こうして朴烈は満州の義烈団から爆弾50個を受け取り、天皇暗殺を計画した
大逆罪人になったのです。
イホリョン講師 ソウル大学 韓国史学科
“朴烈は日本の帝国主義を潰すためには天皇を殺すことが重要だという考え
を持っていて、そのためには爆弾が必要だというふうに漠然と思っていただけ
で、具体的に計画を建てていたわけではなかったのです。それが日本人の判事
によって歪曲されたのです”
それではどうしてこのように大逆事件に拡大されたのでしょうか。この事件
は特別裁判になったのですが、これは日本大審院ができて以来3回しかなかっ
た裁判でした。ところでこの裁判に布施辰治が弁護士として乗り出したのです。
彼の口述を整理した対話集によると、朝鮮の独立運動に敬意を払うという発言
をするほど布施は独立運動家達を支持し、弁護していました。そしてそれだけ
ではなく、朴烈が発行する雑誌には広告を載せる方法で財政的支援もしたので
す。
森正先生 コメントB
“布施辰治はあの最初身柄を拘束されていた時点からですね弁護活動にですね。
参加しているというか、彼が引き受けてやっているんですけれども、事態が次
第に大逆罪というような形になっていった時に普通の弁護士ならもう手を引く
と思いますね。”
イホリョン講師 ソウル大学 韓国史学科
“布施は裁判の過程で事件の不当性や朴烈の無罪を主張します。当時日本は
関東大震災で民心が混乱し、それを落ち着かせる何かが必要だったのです。そ
れで朝鮮人虐殺ということになったのです。しかしそれは全世界からの非難を
浴びることになります。そこで朝鮮人虐殺の事実をもみ消すために朴烈の大反
逆事件というシナリオが作られたのです”
関東大震災に対するお詫びの文(布施辰治)
“朝鮮人虐殺は世界に言い訳のしようがありません。日本の知識人はこのよ
うな行動を震災の不幸より、もっと大きな不幸だと思っています”。
布施は弁論を通して朴烈の無罪を主張しただけではなく、彼のために大審院
と交渉したりしました。朴烈が要求した4つの条件のためでした。それは、公
判廷で罪人扱いしないことと被告人と呼ばないこと、そして朝鮮の服を着るこ
との許可などでした。
森正先生コメントC
“大審院でですね。あの布施辰治はその朴烈の希望をですね。受けて大審院と
何度も何度も交渉してですね。ついに王族の服を着た朴烈が法廷で天皇に見立
てた裁判長に対してですね。徹底的に日本の朝鮮統治の間違いというのを追求
する異例な法廷になったんですね。”
検挙後2年7ヶ月ぶりの1920年3月25日、日本大審院は結局朴烈と金子に
死刑を言い渡します。その時朴烈は“裁判長、ご苦労様。僕の体は君らの好き
にすればいい。でも僕の魂はそうはいかない”と言い、金子は“世の中のすべ
てが罪悪で虚偽で虚飾だ。私はここで朴烈と共に死ぬことにとても満足する”
と言いました。しかし、判決の1週間後二人は天皇の恩赦という名目で無期懲
役に減刑されることになります。そして二人は別々の刑務所に送られることに
なります。ところが、その後妙な事件が起こります。1928年4月収監中の金子
が疑惑のある死に方をしたのです。
イムンチャン会長 国民文化研究所
“金子は刑務所内の作業を拒否していたのですが、死ぬ1、2日前自ら麻縄結
びの作業に出ることを要請したそうです。そしてその麻縄で首を吊って自殺し
たというのが刑務所側の発表した内容です”
イホリョン講師 ソウル大学 韓国史学科
“金子文子は自殺する理由がないというのが定説で、なぜ死んだかについて
は未だ明らかにされていません。ただ大体の推測では妊娠中絶の手術中に死ん
だのではないかという...”
その背景には「怪写真事件」がありました。この事件は判事を免職にするき
っかけになっただけではなく、内閣事態にまで繋がって波紋を投げかけます。
これがその怪写真で、天皇を暗殺しようとした大逆罪人が収監中に仲良く撮っ
た写真です。
イホリョン講師 ソウル大学 韓国史学科
“日本人判事が朴烈の事件を大逆事件に作り上げる中で、朴烈と金子を一緒に
いられるようにするなど好意を施していて、それで金子が妊娠したのではない
でしょうか。しかし、天皇を殺害しようとした罪人の二人が夜を共にしたこと
がばれると大変なことになるから中絶の手術を受けさせ、それが上手くいかず
死んだのではないでしょうか...”
金子のお墓 慶北 ムンギョン郡 ムンギョン
たくさんの疑問を残して死んだ金子は現在慶北の朴家のお墓に眠っています。
これには布施弁護士の助けがあったといいます。以前金子の遺体は共同墓地に
仮埋葬されたまま放置されていたのですが、一緒にいた同志達がごっそり連れ
てきたそうです。
イムンチャン会長 国民文化研究所
“彼らは金子の亡骸を火葬しその遺骨を壷に入れて布施の家に預けたそうで
す”
その後、布施は現在金子が眠っているところに埋められるよう、その手続き
をしてくれたそうです。朴烈は解放(注:終戦のこと)と同時に釈放されまし
たが、布施は1946年『運命の勝利者朴烈』という本を出版し、最後まで朴烈を
支持しました。これは朝鮮の独立運動に敬意を払っていた布施の変わらない行
動でした。
関東大震災事件について朝鮮に謝罪し、反逆罪人の朴烈を弁護することは普
通の日本の弁護士では考えられないことでした。それは天皇統治の憲法の下で
国家権力に直接対抗することで、弁護士としての弁護活動を越えたすごいこと
でした。
布施が朝鮮に関心を持ち始めたのは高校の時からだったそうです。東学党の
乱を鎮圧して帰ってきたある隣の人から朝鮮人追撃に関する話を聞いて朝鮮に
対する同情心を覚えたそうです。しかし、その後も続く布施と朝鮮の関係には
同情心だけでは説明できないところがあります。では布施はどうして植民地の
朝鮮にそこまで関心と愛情を持ったのでしょうか。日本現地取材を通して彼の
行跡を追跡してみました。
取材チームはまず彼の生まれ故郷である石巻に行きました。そこには布施を
称えるために県で作った碑が建てられていました。布施は日本で尊敬されてい
る100人の弁護士の中でも一番だそうです。碑文には彼の履歴をはじめ朝鮮人
との関係が刻まれていましたが、彼が朝鮮人とはじめて直接的な関連を持った
のは1919年でした。
東京に位置しているYMCA会館、1919年2月8日ここで歴史的な事件が発
生しました。3月1日独立運動の導火線になった2月8日、およそ600人の留
学生が集まって独立宣言書を読み上げました。しかし、日本の警察によって強
制的に解散され、またそのうちの10人は逮捕されました。そして彼らは第一審
で出版法違反を理由に実刑を言い渡されました。これがきっかけで布施と朝鮮
人の縁が結ばれることになります。布施は対話集の中で当時の状況を次のよう
に語っています。“私がはじめて弁護したのは万歳事件でしたが、そこには11
人の被告人がいました。彼らにはもうすでにほかの弁護士がついていて、第一
審で有罪判決を受けていたため私達のところに来たのでした”。結局彼らは無罪
判決になります。もし布施が弁護してくれなかったらどうなっていたのでしょ
う。
森正先生 コメントD
“おそらく布施は正当な行為なんだから弾圧すること自体がおかしいと、無実
だ、無罪だと弁護したに違いないです。”
布施は1880年日本の宮城県石巻のある貧しい農家で生まれますが、これは彼
の思想に少なくない影響を及ぼします。1902年現在の明治大学である明治法律
学校を卒業した彼はその年、司法試験に合格します。取材チームは彼に関する
資料を調べるため明治大学に行き、膨大な量の著書と裁判記録が残っていて彼
の活発な弁護活動を推測することができました。彼は最初検事だったのですが1
年後辞めて弁護士になります。
森正先生 コメントE
“検事を辞める時にその書いた辞職の弁というのがあるんですが、その中に‘私
は兼愛主義者だ’とこう書いてますね。”
1900年代のはじめ日本には外来思想が入ってきたのですが、布施は特にトル
ストイのヒューマニズムに魅力を感じました。彼は社会批判と人類連帯の方法、
そしてその生活ぶりまで吸収していきました。
森正先生 コメントF
“彼はおそらく日本人であれ、朝鮮人、韓国人であれですね。中国人であれ、
台湾人であれですね。みんなあの、同じなんだというそういう考えに達したと
思うんですね。で、そういう目から見た時に日本人が他民族を抑圧していると
いうことが目に入ってくる。”
そのような考えに至ると布施は弁護士としてとるべき道について真剣に悩ん
だそうです。取材チームは彼の思想とその実践方法に、より接近するために彼
が残した資料が保管されている石巻のある資料館に足を運びました。そしてや
っとの思いで探した彼の肉筆原稿の中からその問題を解決することができまし
た。それは1920年5月『法廷から社会へ』という雑誌に載ったもので、布施は
これを通して自己革命を宣言します。これはトルストイの思想を実践したもの
で、この時から彼は社会主義者弁護士と呼ばれることになります。
キムヨンボム教授 デグ大学 社会学
“法的活動というのはただ弁護とか法の条文に縛られるものではなく、広く
見て社会の進歩のために活動しなければならない。そういった面で見ると弁護
士も法廷でのみ活動するのではなく、広く社会活動に参加して民衆との連帯感
の中で社会進歩のための活動を積極的に展開していかなければならない。そう
いった点で自分(布施)はこれからそのような活動に積極的に参加するという
立場の表明なのでしょう”
布施の息子が書いた彼の伝記(『ある弁護士の生涯』)によると、彼は社会主
義者の弁護士と呼ばれながら、自分が日本人であることを恥じる態度で人権を
守るために努力したそうです。そんなある日3月1日の独立万歳運動が起き、
これを止めるための日本の弾圧で朝鮮人の人権が蹂躪される状況が発生します。
これがきっかけで布施は朝鮮人問題に関心を持つようになります。
キムヨンボム教授 デグ大学 社会学
“布施弁護士は単純に朝鮮人を助けるという目的から出発したわけではなく、
この方はトルストイの影響を受けたヒューマニストでした。そのような脈絡か
ら抑圧され、迫害されている民衆の立場に大きな関心を持って同情を表してい
たのです。その民衆の中には日本の民衆だけではなく、朝鮮の民衆も含まれて
いたのです”
1923年布施ははじめて朝鮮を訪問します。彼の日程には義烈団事件の弁護も
含まれていました。1923年義烈団は朝鮮総督府に対する第2次爆破作戦の計画
を立て爆弾の国内搬入を計画していました。これはキムシヒョンが中心になっ
ていました。
キムボンヨン(78歳)キムシヒョン義士の息子
“朝鮮総督府を吹き飛ばすことにして時限爆弾をはじめて製造したのです。上
海からわざわざドイツの工学博士を呼んでアジアでははじめての時限爆弾を作
ったのです”
しかし、彼らの計画は事前に発覚してしまい、12名の団員は裁判にかけられ
ました。この事件の弁護を布施が引き受けたのです。1923年8月京城地方法院
では公判が始まり、布施は短い旅程にも関わらず彼らを弁護したのですが、こ
れは植民地法廷では珍しい光景でした。
キムボンヨン(78歳)キムシヒョン義士の息子
“日本人弁護士が無料で弁護をしてくれたという話は聞いているよ。私達が
直接目で見たわけではないけど、この事件は朝鮮独立のために行われた3.1独
立万歳運動の次にくる大きな事件で、日本人としては珍しく弁護してくれたの
は事実よ”
1924年には義烈団キムジソプの日本皇居爆発事件が発生しましたが、布施は
この事件の弁護も引き受けました。キムジソプ事件のきっかけは関東大震災で
した。朝鮮同胞虐殺の知らせは中国の義烈団員達にも伝わり、彼らは耐えられ
ない怒りからこの計画を立てたのでした。そして決死隊を東京に派遣し、日本
の政治、軍事指導者達を殺害することにします。その決死隊に選ばれたキムジ
ソプは1923年12月20日爆弾3つを持って船の底に身を隠し上海から東京に
向かいます。
キムドゥヒョン(48歳)キムジソプ義士の孫
“1924年1月に日本で帝国会議が開かれるということでしたね。帝国会議と
いうのは、天皇や朝鮮総督などの重要人物が集まって開く会議でそれを爆破し
に行ったのです。元々の計画は...”
上海を発って12日ぶりに日本へ着いたキムジソプですが予期していなかっ
た問題が起きます。日本の要人が出席することになっていた帝国会議が無期限
に延期されたのです。
キムドゥヒョン(48歳)キムジソプ義士の孫
“お金もなくなったし、だからといって無鉄砲に爆弾を使うわけにもいかな
い。そこでどのような計画に変えるか考えたおじいさん[キムジソプ]は天皇が住
んでいる...”
キムジソプは警察の厳しい警備のため宮城の中までは入ることが出来ず、入
口の橋に爆弾を投げました。しかし爆弾は不発に終わり、彼はその場で逮捕さ
れます。不発の原因は船中の湿気だったそうです。計画に失敗したキムジソプ
は東京で、爆発物取締法違反などで死刑を言い渡されます。当時この事件は日
本社会に大きな反響を呼び起こしました。
ところで、取材中に義烈団に関わる布施の資料のほとんどが北朝鮮の東京朝
鮮大学にあるということを確認し、そこを訪ねます。しかし、彼らは取材に強
い拒否反応を示し、結局、この取材は韓国内で進行するしかありませんでした。
取材チームは国内の忠清南道天安市にある独立記念館に向かいます。そこで義
烈団に関わる布施の資料を探すことが出来るのでしょうか。
取材チームは資料の中で、布施が発信人になっている一通の手紙を発見する
ことが出来ました。それはキムジソプの弟宛ての手紙でした。その手紙による
と、キムジソプは日本の裁判長に堂々と次のように話したそうです。“私の職業
は独立党員で、私は仕事や生活だけのために生きる人間ではない。それに金銭
のためにしたわけでもない”。布施は独立運動の正当性を主張するキムジソプの
ために膨大な量の弁護原稿を書き、死刑の不当性を強く主張します。“爆発物取
締法に違反したからといって今まで一度でも死刑に処した前例がありますか。
これは実に空前絶後なことであります”。結局、キムジソプは無期懲役になりま
す。そして、布施は、1926年4月、東京の上野公園で開かれた講演会で、義烈
団事件の原因として総督政治を指摘し、これを猛烈に批判します。“義烈団事件
や爆弾事件が起こった上に、最近では大逆事件まで突発しました。これらのす
べての原因は総督政治の圧迫にあるのです”。
一方、2.8独立宣言事件で拘束された在日朝鮮人留学生の第一次弁論の担当
弁護士たちは、被告の犯罪事実を認めた上で、彼らに対する同情心で執行猶予
を主張します。しかし、布施弁護士は彼らの独立運動は正当なものであり、む
しろ彼らを弾圧すること自体が違法だという論理を展開します。このような布
施の態度は当時の日本の法廷では珍しい弁論でした。当時、日本から朝鮮に行
こうとすると、船で3、4日はかかりました。一度行くのも大変な旅でした。し
かし布施は1923年の初訪問に続き、1926年から1927年の間に3回も朝鮮を
訪れます。訪れるたびに彼は講演会と弁護で忙しい日程を送り、彼の訪問が増
えれば増えるほど彼に対する朝鮮人の信頼感は強くなっていったのです。
今度は朝鮮での布施の活躍ぶりを見てみることにします。階級解放に関心を
持っていた布施にとって朝鮮の衡平運動は注目に値する事件でした。韓国最後
の身分差別打破運動であるこの衡平運動は白丁に対する差別撤廃を訴えたもの
でした。1894年の甲午更張(注:1894年高宗甲午年に金弘集らの開化派が行
った政治制度の近代的改革)の時に法律上は身分が解放され自由になりました
が、1920年代に至るまで彼らは相変わらず最下級階層の人間としてしか扱われ
ませんでした。そして彼らの職業は戸籍にまで記入されていて、その子孫にま
でその記録が残りました。牛肉販売業や屠殺業などは白丁の別の呼び方でした。
累積した鬱憤を晴らすため彼らは、1923年4月、ジンジュで衡平運動を起こし
たのです。
キムジュンソプ教授 ジンジュ経商大学 社会学
“白丁達は下級階級の中でも一番下の層に属した人達でした。そんな彼らが
自分たちの身分を能動的に認識し、差別撤廃を訴えたのです”
1923年8月11日、布施は慶南の金海で開かれた衡平社創立記念パーティに
出席し、演説することになります。衡平運動とは秤のように衡平のとれた世界
を作ろうという運動でしたが、知識人でありながら下級階層の人達の運動に同
調することは決して易しいことではありませんでした。しかし布施は違いまし
た。
キムジュンソプ教授 ジンジュ経商大学 社会学
“勇気ある知識人でなければ、難しいことだったでしょう。狭義での民族や
国家...特に日本帝国主義の時代ではそのようなものに気を取られて自分の栄
光のために働くことができたのでしょうが...そうじゃなくてもっと普遍的な
問題、例えば人間問題や人類社会問題に関心を持っていて...また異民族、特
に自分達が支配している勢力のために...そこまで積極的に働いたということ
は大変勇気ある知識人だと私は評価します”
1926年3月、布施は2度目の朝鮮訪問をします。これはグンサンミョン官三面という
全南
ナジュ地域の土地回収闘争問題のためでした。官三面は現在ナジュ郡王曲面な
どの約510万坪の平野地域です。この土地の所有問題は憤死者を生むことにも
なります。ゾンスンレさんのご主人の祖母がその主人公ですが、ドンチョック東拓
〔官三
面近くの村の名前であると同時に、その開拓団?の名前も指すと思われる〕が
打った杭が災いのもとでした。
レポータとおばあさん(ゾンスンレさん)の会話
レポータ:“東拓所有という標識の杭を打った
のですか?”
ゾンさん:“はい”
レポータ:“日本が打って…”
ゾンさん:“おばあちゃんがこう抜いたの。そうしたら憲兵が足で、土足で蹴っ
てそれで亡くなったの。日本の憲兵が入ってきて…。ここで亡くな
っていたら何とかしたのだろうけど…。気絶して家に帰ってきて夕
方に亡くなったみたい”
レポータ:“その日の夜にですか?”
東拓の職員達が日本の憲兵を連れてきて、その土地が東拓の所有だという標
識の杭を打ったからおばあちゃんがそれを抜こうとし、憲兵に殴り殺された事
件でした。
ナスンゾ(95歳)ナジュ王曲面
“女が反抗しながら飛び掛るから(憲兵が)足で蹴って殺したの。それで死
体を背負ってヨンピョンまで行ったの。見つかって血だらけになって逃げ帰っ
てきたの。そこに行った人達がみんな…。いまでもその時のことを思い出すと
言葉も出ない”
農民達が土地を奪われるようになったのは、植民地時代末期に税金を代納し
ていた官吏が、持っていた土地文書を農民の同意なしに宮廷に売ったことに始
まります。その後官三面は元々の値段の30分の1の7万6千ウォンというた
だ同然の値段で今度は東拓に売られます。その後、東拓の職員達は日本の憲兵
を連れて町を回り、官三面を自分達が買い取ったことを知らせるのです。
イギュス スンチョンヒャン大学 講師
“東拓は土地買収の後、憲兵700人を動員して官三面の所有権が東拓にあ
るということを農民たちにも認めさせようとします。そして農民達に判を押す
よう要求するのです。この過程で彼らは約2万人の農民達を広場に集めて判を
押すよう強制します。これに対して農民達は激しい抵抗運動をすることになる
のですが、そんな彼らに憲兵は木剣などで暴力を加えます。その過程で少なく
ない農民が殺されることになります”
東拓の蛮行を見ていたヨンサンポのある日本人司法書士の本庄は「東拓の罪
悪史」という手記まで書き残します。東拓が官三面の土地を強制的に買収した
後、官権を利用して農民を虐殺するなど蛮行を繰り返したということでした。
東拓の横暴を嘆いていた農民達はとうとう1925年、農民会を組織し、この村塾
で血書を書くことにまで至ります。いわば血書同盟事件ですが農民達が土地を
取り戻す日まで東拓に小作料を払わないと決意したのです。
ナゾンチェ(84歳)
“それは私が全部目撃しました。その頃は村塾があったから昼は学校に通い、
夜は村塾に通いました。昼は警察が妨害するからそれを避けて夜に…。カッタ
ーで指を切ってその血を硯に集めて…”
“先祖から譲り受けた我々の土地を東拓に奪われたから、ここで我々は土地
を取り戻すまで小作料を払わないことを血で盟約する”
ところでその盟約から十日も経たないうちにそれを破った人が出てきました。
怒った村の人々は小作料を払ったその農民を引っ張り出してナジュヤンサン小
学校に向かいます。
ナゾンチェ(84歳)
“授業中に何か騒がしい音がして運動場を見たら人が数百人集まってきてい
たのです。その一番前に…。誰か知らないけどひどく殴られていました。縄で
縛られた人が背中を押されながら…。‘どうしたの?’と子供たちがひそひそ話
していたら、誰かが‘あの人は小作料を払わないとみんなで約束をしていたの
に小作料を払ったから殴られている’と…”
当時、小作料不払い運動の先頭に立っていた農民ナゼギさんは、秋になるた
びに警察に連れて行かれたといいます。次は娘さんのナマンレさんの証言です。
ナマンレ(ナゼギの娘)
“最初はお年寄りの方達がやっていたのですが、お年寄りが殴られたりする
ところを見て父が代わりにやることになったのです。父が中心になって戦いま
した…。小作料を払わないことにしようというビラを貼ったり…。そうしたら
秋になるたびに父を警察が連れて行くわけです。小作料を払う時期になると2
週間は閉じこめられていました…”
ほかに頼るところがなくなった農民達は日本に向かいます。ナゼギをはじめ
とした4人の農民が血書を持って布施を訪ねたのです。
イギュス スンチョンヒャン大学 講師
“当時、布施は朝鮮人のための弁護士だという認識を朝鮮人は持っていまし
た。ある青年が作ったビラを見ると‘来た 来た また来た’というのがありま
す。要するに朝鮮人は日本人の中にも侵略者だけではなく…。つまり、布施を
自分達の同盟軍として見ていたと思います”
これに感動した布施は、1926年、朝鮮を訪問し官三面へ向かいます。布施が
朝鮮に着くと警務当局は焦ります。最初は布施に来ないよう勧告しますが、最
終的には露骨に妨害工作を行います。彼らは官三面の近くの旅館に泊まってい
る布施を訪ねたのです。
ナスンゾ(95歳)
“警察と旅館の人がぐるになって…。日本人が朝鮮人の着物を作ったの。冠
まで作ってかぶって布施が来た日に(朝鮮人のふりをした日本人が)出迎えた
の。布施にこのようにうそをついたの、‘いらっしゃるという話は聞きました。
しかし、問題はもう解決しました’とね…”
しかし、布施はこれに騙されることなく、農民にアンケート調査をするなど
本格的な土地調査の準備をしました。それを見た総督府と東拓は、問題が朝鮮
全国に広がるのではないかと非常に心配しました。
イギュス スンチョンヒャン大学 講師
“当時朝鮮の総督府は‘東拓の癌’という表現を使っています。つまり、こ
の問題をきっかけに朝鮮の各地で似たような問題が続出することを事前に防ご
うとしたのです。布施がヨンサンポに着くと、朝鮮総督府は両者のため調停案
を提議します。要するに両者を適当な線で妥協させようという…”
結局、布施の朝鮮訪問は、朝鮮総督府に調停案を作らせます。その提案とは、
宅地や墓地などは返し、農地は10年償還として農民に分譲するというものでし
た。しかし、ほとんどの農民に償還能力がなかったため官三面は東拓のものに
なりました。そして、土地回収闘争は中等半端のまま終わってしまいます。
布施は、当時、朝鮮の農民の生活像を目撃し、植民地近代化;即ち日本は植
民地の朝鮮に対して収奪だけではなく農業の近代化をもたらしたという主張に
対し、その主張の虚構性を指摘します。農業生産量は増加しましたが、その増
加した分が日本に流出されていたから、総督府の政策は朝鮮人のためではなく
日本人のためだったことを主張したのです。
日本人でありながら、朝鮮の独立運動の正当性を積極的に擁護する弁論をし
た布施弁護士は、自ら認めたように、弁護士であると同時に反抗者だったので
す。
一部では、彼が共産主義者で、共産党のために朝鮮の民衆を利用したという
評価もあります。
次は、彼の思想に関する疑問について調べてみました。1927年、布施は朝鮮
共産党の弁護のため、2回も朝鮮を訪問しました。布施はこの事件を通して、も
う一度、朝鮮の独立運動の正当性について力説し、『解放』という雑誌を通して
朝鮮訪問の目的について次のように述べています。
“共産党事件の真相は、総督政治の弾圧に対する一種の反抗です。従って、
この事件は総督政治に反抗するしかなかった朝鮮民衆全体の事件です”
日本帝国主義の野望は、1940年に入って絶頂期を迎えます。大東亜共栄圏を
利用して勢力を拡張していた日本は、満州を手に入れた後の1941年、太平洋戦
争を起こします。しかし、戦争は日本の敗戦で終わり、それと同時に、日本に
よる植民地統治もその幕を閉じることになります。しかし、布施と朝鮮の関係
は解放後も続きます。
植民地統治から逃れた1948年、朝鮮半島の南はイスンマン李承晩が、北はキムイルソ
ン金日成が政権
を握ることになります。朝鮮がそのような状況にあった時、日本では在日朝鮮
人に対する弾圧事件が発生します。国旗掲揚事件です。
キムキョンラク(82歳) 北朝鮮国籍の在日朝鮮人
“共和国創建を祝うために(日本の)東北6県で同胞が集まって記念運動会
を開くことになりましたが、その時私達は国旗を掲揚しました。最初それを知
った日本の警察が中止命令を出しました…”
日本の警察の代わりに出動したアメリカ憲兵隊が拳銃で威嚇し、それに群衆
が憤慨したそうです。それを見て驚いたアメリカ憲兵の一人が発砲し、群衆の
中の一人に当たる事件が発生しました。
キムキョンラク(82歳) 北朝鮮国籍の在日朝鮮人
“その場で軍事裁判が行われることになったけど、弁護士になってくれたの
が布施辰治先生でした。そのとき私達は証人として前に呼ばれていて、米軍憲
兵10人の中から発砲した者が誰かを指差すよう言われました…”
イヒョンラン教授 日本中央大学 史学科
“二人は暴行罪で有罪判決を受けて、もう一人は国旗掲揚関係で逃げますが、
当時、宮城県では国旗掲揚事件、即ち、キムシヒョン事件は在日朝鮮人にとっ
ては大きい意味を持つ象徴的な事件の一つでした。それがきっかけで次の年に
日本政府は在日本朝鮮人連盟を解散させます”
このように布施は共産党事件の弁護を主に引き受けただけではなく、彼の口
からは共産主義の無産階級に関する言及が頻繁にありました。彼の共産党関連
弁護は彼自身の思想である共産主義を実現するための一つの方法ではなかった
のでしょうか。
森正先生コメントG
記者“そうしますと、布施が共産党に入党したこと
はなかったんですか?”
森先生“それはもうなかったと思います。あの、いわゆる秘密党員とかです
ね。そういう問題も日本にもあったみたいですけども、彼は一貫して共産党に
は入らなかったです。”
布施は1930年代、新聞法違反と、当時、悪法で有名だった治安維持法違反で
2回も投獄されます。当時、彼が書いた手記から彼の思想に関する答えをやっと
探すことができました。
“私は弱者を弁護する使命から成長した自然発生的な解放運動家であって、
マルクス・レーニン主義を検討し把握した共産主義者ではない”
投獄と弁護士資格の剥奪で危機に瀕した時、布施のそばにいた彼の孫娘に会
いました。
伊藤ゆかり(62歳)布施の孫娘 コメント@
“戦争中ですから食べ物もないですし、仕事もしてませんから収入もありま
せんし、しますから、あの、こつぼという漁村にいましてワカメをとって、海
草をとってきたりね。それから裏山でもってあの…木を、薪を持ってきたりも
して、それからあの…書き物でこう要らなくなったものありますね。そういう
ものでご飯を炊いたりして、そんなふうにしてみんなで暮らしてました。”
経済的な苦痛は、布施が一番愛した3番目の息子の死に比べると大きい苦痛
ではありませんでした。トルストイからその名前をとったモリオ杜生〔かつてトルス
トイのことを杜翁といった〕は、1944年、治安維持法違反で拘束されて獄死し
たのでした。しかし苦難の中でも布施の活動は続いたし、だから経済的負担は
奥さんの役割でした。
伊藤ゆかり(62歳)布施の孫娘 コメントA
“あの祖母の方がね。その辰治の妻がですね。やりくりをするために家を売
って買って移る。売って買って移るということを、事務所をね。そのことでお
金をなんというんですか?買ったときよりも高く売ってそういうことをしてや
りくりを、生活のやりくりをしていたのであのおばあさんの方が偉いんだとい
う人もいますし、色色ですからわかりませんけど…”
1953年9月13日、74歳で息を引き取った布施辰治の朝鮮人に対する情熱は
死に至るまで続きました。布施の最後の演説は、彼が死んだその年の3月、朝
鮮統一民主戦線の3月革命記念大会でのものでした。
彼の遺骨はサンゼ寺に安置されていました。おじいさんを訪ねてきた曾孫と
その子供。
布施辰治の子孫は、植民地であった朝鮮をはじめ、抑圧される者のために生
きた彼らのおじいさんに誇りを持っていました。そして記念碑には、彼が一生
心の中に持っていた信念が刻まれていました。
生きべくんば民衆とともに
死すべくんば民衆のために
布施が、弁護士の資格を剥奪された時、『我々の同志』という在日朝鮮団体の
機関誌は、それに抗議する記事を載せました。そして、布施を‘忘れられない
我々の弁護士’と呼びました。日本人である彼が見せてくれた朝鮮人への関心
と愛情、そして、朝鮮独立運動の正当性を擁護する数々の弁護活動は、日本の
過ちが私達にとってだけではなく、普遍的で妥当な基準にも合っていないとい
う反証でもあります。
過ぎ去った世紀、日韓両国の歴史は、植民地時代の絆から抜け出すことがで
きなかったのが事実です。明日はニューミレニアムに入ってはじめて迎える3
月1日です。もう過去の絆を脱して、新しい日韓関係を作るのに、今日紹介し
た布施辰治が小さな道標になることを期待します。
PD手帳
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