中学校のころ 1993.6.12 日経新聞
敗戦の年、小学校六年生だった。翌年中学生になった僕らは、最後の旧制中学生ということになる。
中学の志望校を選ぶ時期になったとき、たまたま電車の中で、背の高い、いかにも秀才顔の中学上級生を見かけた。胸の名札に「日本大学大阪中学校」とあった。小学生の僕には、「附属」ということの意味は理解できない。大学の名を冠しであるところから、大学で学ぶ程度の高い勉強も同時に行うものと解釈し、そのえらそうな学校を志望した。いまの「大阪学園大阪中学校」である。合格したとき、父は"闇市"天ぷらをご馳走してくれた。
当時でいえば学校は郊外にあり、通うのに不便だったが、中学生になった環境の変化が僕を喜ばせ苦にならなかった。学科別に先生が変わるのも新鮮で、それまでの小学校とはちがい、大人の扱いをうけているという昂ぶりがあった。加えて、戦後民主主義教育の、いわば僕らは第一回生である。貧しかったが、解放された自由な気分があった。
同じクラスに森本というのがいた。小学校のときにもそんな子がいたが、森本は"おんな形"である。女ことばを使い、動作も女の子だった。他の生徒は、そんな彼にすぐ馴れっこになったのか、特別な眼で見ることもなく、何の違和感もなしに付き合っている。
でも僕は、そうはなれなかった。彼のはれぼったい瞼(まぶた)切れ長の眼、やや厚いくちびるが艶めかしく感しられ、生理的に嫌悪した。何かのときに、「手相見たげよ」と僕の手をとったとき、思わず手を引っこめたことがある。女の子にさわられた感触があった。
森本は熱烈な"ヅカファン"である。当時の宝塚少女歌劇のスター、春日野八千代のことを「ヨッちやん」などと呼び、その舞台での仕草をまねて見せ、軽いタップを踏んだりした。しなを作って踊るのを見て、僕は
「男のくせに女のまねなんかすんな」
といじめた。ちよっとした僕への言葉に腹を立て、彼を突きとばし、よく泣かせた。それでも彼は何かと僕に近寄ってくる。僕の方にも屈折した気持があつた。近づいてくるといじめるくせに、彼が誰かと親しくすると嫉妬したのである。
そのころ僕は近所にあった大衆芝居になじんでいたが、男が顔に白粉
(おしろい)をつけるのを軽蔑していた。役者は、まともな男のやる職業ではないと考えていた。
しかし、森本が教室でやって見せる踊りや仕章を、いつしか家で、自分もひそかにまねていることに気づいたのである。森本のが移ったのか、元からそんな素質があつたのか、僕はそのことを恥じながらも、体内に流れる快感を楽しんだ。でも、それを人前で表わすほど、まだ正直になれず中学校を卒業した。別の高校に進学したから、それ以来森本には会ってない。入って「新劇」を知った。新劇のもつ知的雰囲気に染まり、またそれを得意がって、公然と役者志望を言えるようになつたのである。