99.2.21
マルセ太郎
韓国では年長者に敬意を表す風習があることは、よく聞く話である。しかしこれほどとは思わなかった。
一度の例外もなかった。あるときは、ちょっと離れて腰かけていた若い男女二人が同時に立った。どちらに坐っていいのか迷ったが、女性の方に坐らせてもらった。その席をゆずる行為が実にさわやかなのである。TどうしようかなUT誰かがゆずるだろうUという、ためらいの間がない。老人の姿が目に入ったらスッと立つのである。別のときなんか、小学校5年生くらいの坊やと並んで腰かけていた、母親らしき婦人が、その坊やを立たせて僕にすすめるのである。このときはさすがに恐縮した。しかしその行為があまりにも毅然としているので、こちらも遠慮することばを入れるタイミングをつかめない。
毎度席をゆずられているうちに、ひがみたくなったほどである。「おい、おれはそんなに年寄りに見えるか」。
韓国旅行をしたことのある日本人は珍しくないはずなのに、こんな話があまり伝わってこないのは、おそらく彼らは観光バスで案内されるだけで電車に乗らないからであろう。
ひるがえってわが日本の車内風景。今更いうのも気がひける。「シルバーシート」に長い脚を投げだして腰かけている若者の前に、年寄りがつり革につかまって立っている。それがどうしたといわんばかりの、当然のことになっている。もう醜悪である。見ていて気持ちが悪い。
今回通訳として同行した李康先(リーカンソン)君は日本に留学して四年になる。初めのうちこそ、韓国の習慣にしたがって年寄りに席をゆずっていたのだが、そのたびに周りの若者から奇異な目で見られるので、いつしか席をゆずることをしなくなったと言う。日本の風俗に同化してしまったのである。老人に席をゆずる行為に勇気が必要だとは、なんと情けないことか。そもそも、あのシルバーシートは何なのか。そんな偽善的看板なんか、さっぱりと外(はず)してしまえばいい。あるから余計不快である。
若者だけの話じゃない。大人だって同じである。もはやいまの日本には、ゆずるという精神が希薄になっている。
こんな話になるとすぐに、「戦後民主主義教育が悪いんだ。日教組が悪い」とか、「だから道徳教育が必要だ。修身教科書を復活しろ」などと、アホなことをいうのが出てくるから困る。
そんなことではないのだ。世のえらい人たちがいう教育や道徳から、何も生まれやしない。みなウソつきである。それが証拠に、現在の各界のえらい人の犯罪を見るだけで十分である。国を守る気概をもてとえらそうにいってる防衛庁の犯罪、銀行の犯罪、いくらでもある。税金を払わないことで資産をふやした首相が、国民に道徳を説いたのは今は昔の話である。えらい奴はみな犯罪者だ。そう思っている。そうでないと見られるのは、バレていないだけのことである。
「勝てば官軍」という構造は、昔から少しも変わっていない。一体修身教育がなにかいいことをもたらしたのか。いわゆる中国残留孤児たちの父親を、ジャーナリストは調べてみるがいい。企業の幹部職員だった者がいるのか。彼らはソ連参戦の情報を知って、早々に帰国しているはずだ。下の者たちはきわになるまで、その情報を知らされなかったのである。
日本人の多くは、勝つ側につくため汲々とし、そのための学校教育であり道徳なのである。
相変わらず「平和憲法」はアメリカの押しつけだと、あきもせで言ってるのがいる。では聞きたい。農地解放はどうだったのか。これもアメリカの押しつけである。このことに彼らは頬被りしている。日本人自ら農地解放を勝ち取ろうとしていたら、どれだけの年月の内戦が続いたことか。多くの血が流されたことか。多少の想像力があれば、すぐに分かりそうなことである。高度経済成長などと浮かれたことか。
この頃、「人権屋」などと、やゆした言葉を得々と言いたてるジャーナリストが増えている。彼らには初めっから思想も理念も持ち合わせがない。ただ勝ち組にのりたいだけの卑しい群なのである。
作家の山口瞳が書いている。
「日本の歴史の中に、弱い者のために戦って犠牲になった偉人がいますか。せいぜい千葉の佐倉宗吾くらいでしょう。そんな国、僕は愛しません」
そうなのである。僕は公演で全国的に旅をしていて、各地でよく銅像を見る。ほとんどが、功成り遂げたえらい人の像であって、山口瞳が言ったような偉人の像を見たことがない。
ちょっと話を広げ過ぎたようだ。韓国公演日記から大きくずれてしまった。要するに、韓国の年長者を敬う風習を、すぐに教育とかしつけとかに結びつけないでもらいたいのである。
いずれにしても車内での体験は、僕にはとても気持ちがよかった。年長者に対する礼ばかりではない。大学路(テハンノ)に集まる若い人たちに好感がもてた。連れ立って歩く男女の姿に、日本で見られるようなべたべたしたのがいない。歩き煙草なんか一人として見なかった。
仁寺洞(インサドン)にある洒落た喫茶店に入ったとき、差し向かいで坐っている若いカップルを見た。青年が何やら話しているのを、女性は静かにうなづいている。少し固い二人の間の空気に、四十五年も前の自分を見た。そうだった。与謝野晶子の歌にあるTさみしからずや道を説く君Uだったのである。人生や文学について熱っぽく語っていた。やわ肌にふれもせで。それが若さというものじゃないか。おそれることを知らず大人になるのは不幸なことである。