映画雑感(97.10 室内) ボードビリアン マルセ太郎
映画ほど安い娯楽はないと思う。入場料は、僕なんかシニア料金(六十歳以上)の千円である。
シニア料金があることを、しばらく、知らなかった。若い友人に教えられて初めてチケット売り場に立ったとき、それを申し出るのに気がひけた。それまで干八百円払っていたのが千円になるのだから、何かずるいことをしているような気分になったのである。
小さい声で、「シニア」と言って千円差し出すと、窓口の女性は、いともあっさりこれを受け取り、チケットを出してくれた。ちょっとがっかりした。うそでも、「免許証か何かお持ちですか」ときいてくれたら、僕は喜んでポケットから、運転免許証を出しただろうに。まあそのことは余談で、映画は安い娯楽である。
言うまでもなく、人間は一度の人生しか生きられない。別の人生を生きることは不可能である。それをかなえてくれるのが、二時間くらいの時間に限ってだが、映画ではないか。
僕らは、映画に出てくる人物に同情し、共感し、あるいは喜び、または悲しみながら、別の人生を生きるのである。そして映画は、幸福と成功は違うものであることを教えてくれる。それが故に、多くの感動的な映画に出てくる人物は、必ずしも世の成功者ではない。むしろ敗者の中にこそ、美しいドラマがある。
そんな映画の一つに、アメリカ映画「リービング・ラスベガス」を観た。これは、どちらも人生の敗北者といえる、中年の男と女が出遇って起きた、束の間のラブストーリーである。
男はアルコール中毒で身を持ちくずしたシナリオライターで、とうとう、お情に少々まとまった金をもらい、会社をクビになる。彼は絶望し、その金がつきるまで酒を飲み続けて、のたれ死にしようとラスベガスに出た。モーテルに住み、何の飾り気のない部屋に、酒の空瓶だけが何本も転がってくらしいるという、生活が始まる。
たわむれに男は街娼を買った。といっても男はアル中で、ほとんど性的に不能である。何度か男はその女を、モーテルに呼んだ。特に気に入ったからではなく、ただ惰性であろう。女にはヒモがいて、彼女は毎夜街に立ち、行きずりの男たちの性的はけ口に、身を供するだけの希望のない日々を暮している。
絶望した者同士だから通うのか、男は別段甘い言葉をかけるわけではないのに、いつしか女は、男の温もりを感じるようになる。
マフィア組織の淀にふれて、女のヒモは殺される。女は自由の身になったのだが、街娼はそのまま続ける。女は男に言った。
「モーテルから出て、わたしのところで一緒に住もう」
それは愛の告白である。男は答えた。
「その代り、一つだけ約束してくれ」
「何?」
「酒を飲むなと言うな」
ここで僕は、椅子に沈みそうになるほど、絶望感におちた。最早男は、僕らの期待するいささかの希望も、拒絶したからである。二人は同棲するが、映画はハッピーエンドにはならない。
なのに見終って、後味のいい、温かい気持が全身に伝わってきたのである。
愛という言葉が一度も出てこなかった、感動的な愛の映画であった。