1993.2.13 日経・夕刊より

マルセ太郎エッセイ「花井のおじさん」

  僕らがかつて拠点にしていた浅草松竹演芸場がなくなって、もう八年になろうか。

 一般に「寄席」というのは落語を主体にしたものであって、寄席の世界では落語、講談以外のものを“色物”と呼ぶ習慣がある。きびしく言えば、一種の差別用譜だ。

 それはさておき、「演芸場」は色物専門の劇場であった。寄席と同じように、月を上席、中席、下席と分け、一日二回十日間の興行になっていた。様々のジャンルの芸人で賑わい、ここから多くのお笑いスターが誕生したのである。

 後にはさびしくなった「演芸場」も、昭和四十年代初期頃までは、いまかちは信じられないほど盛況だった。土日など七百人も入り、立見客で扉が閉まらず、所轄の消防署から再三注意をうけたという話も聞いたことがある。ドッと起こる客の笑い声で、まさに劇場は揺らいだ。

 二回の出番の間は四時間もあったが、どの楽屋も、芸人仲間やひいき客の訪問で賑わい、麻省卓を囲むのもいて、とにかく活気があった。若かった僕らは、真面目に芸論を談じたりもした。「Wけんじ」の東さんの話をむさほるように聞いたのも、いまは懐かしい思い出である。

 「中日(なかび)」という習慣があった。中の五日目になると、出演者たちが、裏方さんの労をねぎらって祝儀を出すのである。本来はそれぞれの芸人が任意に出したものと思うが、僕らのときは、ピン(一人芸)なら千円一律に定められていて、その日が来ると、もう七十過ぎになっていた楽屋番の花井というおじさんが、「ええ、中日でございます」と、各楽屋を徴集してまわった。祝儀をうける側が徴集するのでは祝儀の意味をなさないのだが、どうせならそうしてもらった方が、芸人がいちいち額の多少を気遣わないですみ、かえって助かったのも事実だった。

 歌謡界では、看板になっている主演歌手が、司会者や他の出演者、バンドのメンバーなどに祝儀を配るものらしい。年中歌謡ショーの司会をやっていた男が、あるとき、慢談家として初めて演芸場に出演した。花井さんが例によって、「ええ、中日でございます」と、彼のところにやってくると、その慢談家は

 「あのう、まだ頂いてません」

 花井のおじさんはしばらくキョトンとしていた。われわれの間でいまも語り草の話である。

 花井さんは慢才師あがりで、よく若い芸人たちに小言を言った。

 僕があるとき、劇場近くの安食堂で窓際のテーブルについて飯を食っていたら、通りを歩いていた花井さんが僕を見つけ、手招きする。何の用だろうと、箸をおいて外に出ると

 「芸人がこんな安食堂で飯を食いなさんな。よしんば入っても、外から見られるような窓際なんかに座るもんじゃないよ。奥へ行きなさい」

 “楽屋番のおじさん”と軽く見ていた花井さんに、僕は、芸人の持つべき矜持を教わった。


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