恥ずかしかったひと 1989.12 わらび

 

 山田洋次の映画「ダウンタウン・ヒーローズ」を観て、ぼく自身の大阪高津高校時代を想い起こした。映画に出てくるのは最後の旧制高校生で、ぼくらは新制高校四期生だったから年代の隔たりはあるが、心情的に共有出来る部分があったように思う。敗戦後の解放された自由な青春が、そこにはあった。事実は、朝鮮戦争があり、日本の再軍備が進められ、反動化の兆しが見えてきつつあったのだが、まだ学園は自由だった。実施された公立高校の男女共学制度は、初々しい青春の興奮をぼくらにもたらした。映画にも出て来たが、ぼくらの高校でも秋の体育祭の夜は、ファイヤーストームをやった。旧制高校への憧れの名残りで、その習慣を真似たものである。運動場の中央に火を焚き、生徒たちがその周りを輪になり、唄い踊る。旧制と異なるのは女生徒も参加していたことである。二年生の時だった。ぼくは演劇部のキャプテンをやっていて、こんなときは積極的で目立っていた。先生たちは教員室に引き上げ、あくまで生徒の自主性に任せていたのである。母校へやってきた先輩の大学生たちが持ち込んだ酒を呑むのもいた。勿論ぼくもその一人。

 はじめの内は、生徒会役員の主導だから、校歌、ロシア艮謡など大人しいものだった。それが不満な先輩の一人が、「こんなファイヤーストームがあるか。女が居るからや。女共を帰せ」と怒鳴りはじめた。彼らは男女共学という恩恵に浴さなかった世代で、それの僻みか、女生徒と輪を組んでいるぼくらを軟弱と見たのだろう。「女共を帰せ」とわめく先輩に、生徒会長は抗議した。「今は民主主義の時代です。男女同権です。先輩たちのバンカラ風の押し付けは迷惑でず」理くつは正にそうである。先輩はたじろいだが、「理くつはどうでもええ。女共を帰せ」と怒鳴るばかり。その時、今思うと恥ずかしいが、酒の勢いもあって、ぼくはその先輩におもねった。

「先輩任せて下さい。ぼくが女たちを帰します」

「ようし、気に入った」と先輩。そこでぼくは何をやったか。皆が注目する中で、ぼくは空の一弁びんを手に、身振り、腰振りよく「よかチン踊り」をはじめたのである。つまりワイ歌だ。これに先輩たちは勿論、男子生徒はわっと囃し立て一気に盛り上がった。それからはワイ歌のメドレーで、同じ演劇部の連中も出てきて乗りまくる。当時の女生徒は何と可愛かったことか、はじめの「よかチン踊り」で潮を引くように去って行った。現在の子だったらどうか。まんまとぼくの策は成功で先輩たちは大喜び。しかし女生徒たちは家へ帰ったのではない。気が付くと、校舎の二階の窓に鈴なりになって、そこからぼくらを見物しているのである。なお可愛いではないか。その夜は盛り上がり、ぼくは主役でスターだった。

 翌日学校に行くと、昨夜の名残りがあって皆ぼくを見る眼が笑っている。女生徒も同じで、ぼくは得意満面であった。そして一時間目の英語の授業。渡辺均一先生が入ってきた。ぼくを見てにっこり笑い、「ゆうべは御苦労さんでした」。教室中どっと笑いが起こりぼくの方に振り向く。しかしその後である。先生は淡々と話しはじめる。徴兵にとられ、南方の前線にやられた時の体験である。日本軍が、土人、土人と馬鹿にしていた現住民たちが、やはり火を焚き輪になって酒盛りをしているのを目撃した。そのとき彼らが打ちならす太鼓のリズム、和して唄うコーラス、女たちの踊り、少しも卑わいさがなく音楽的にもすぐれていた。

 一方、彼らを土人呼ばわりしていた日本軍は、将校も兵隊も区別なく、こんなときに出るのは必ずワイ歌であった。果してどっちが土人か。敗戦後の、これからの日本は君たちが背員っている。ことに君のように芸の素養のある者が、同じようにワイ歌しか出てこないのはどうしてか。悲しかった、と本当に悲しそうに話された。

 静かな話し振りなだけ、それはぼくの心臓をえぐった。消えてしまいたい位恥ずかしかった。何日かは先生の事故死を願った位である。その後より現在五十五才に至るまで、ぼくは一度もワイ歌を唄ったことはない。物を教える、教わるというのはこんなことではないのか。渡辺均一先生、現在も健在か。


目次に戻る