「見上げればひまわり」に出演して(1993.10.6 赤旗)

千恵子さんの歩みに泣いた

 僕は芸人だが、役者の仕事は下手(へた)である。芸をやる限りにおいては、自分の得意とするものを演じればすむわけで、それほどの苦労はない。ところが台本を与えられて、それを朗読したり、演技をするとなると、これは専門外ということになる。

改めて本を銃む

 そんな僕に、被爆五○周年キャンペーンビデオ、「見上げれば、ひまわり」に出演してくれとの話がきた。プロデューサーの港健二郎さん、ディレクターの朝倉祐次さんと、うちの事務所で会った。

 画面に出演し、ナレータ−にもなるという。元来が悪声で、普段から歯切れのよくない僕の発声では、ナレーターには不向きではないかとためらつたが、かえつてその方が実感が出るという、お二人の意見にあまえて出演を承諾した。十六歳のときに長崎で被爆し、下半身不随となった体を母スガさんに支えられながら、生涯を原水爆禁止運動に棒げた渡辺千恵子さんを、記録風にまとめた三十分のビデオである。

 若いころ「長崎原爆乙女の会」のことを知っていたが、長い年月の間に、渡辺千恵子さんの名を、僕は忘れていた。僕の身にも「原爆」は風化していたのである。

 全く無関心だったわけではない。これまでに、原緑をテーマにした映画を何本か観たし、著書も読み、何年か前には、仕事のついでではあったが、広島の平和公園にも行った。しかし限られた僕の想像力では、被爆の犠牲者から疎くなってしまっている事実を、否定できない。あらためて資料としてわたされた千恵子さんの本を読み、はじめのページのうちに僕は泣いた。

僕の胸は痛かった

 ビデオは、ありし日々の千恵子さんのくらし、そのときどきのニュース映画のシーンを挿入しながら、スタジオで僕が語っていくという構成である。母スガさんのモノローグ、千恵子さんのせりふのところでは、やはり男の僕にはむつかしかった。あえて女性の声色にしないで、ことばの調子に変化をつけることを工夫したが、どうだったか。不馴れな仕事をどうにか仕終えたときは、はたして僕でよかつたのかと、いまも不安である。直接の被爆体験者でない僕が語ることばに、いかほどの説得力があったかと、空(むな)しさが残った。挿入されたシーンで、やはり千恵子さんと同じ、三菱電機製作所で被爆した山口仙二さんの、当時を語る淡々としたことばには及ばない。当然のことである。被爆してから病床に横たわったままの千恵子さんが、十一年ぶりで長崎の街を見てまわるシーンがあった。街を見たいと願う千恵子さんのために、彼女を取材した映画人の好意でさしまわされた自動車に乗り、スガさんの説明にうなずきながら、窓外の風景を食い入るように眼を注ぐ千恵子さんの横顔。どんな思いだったろうか。ナレーションを朗読する僕の胸は痛かった。街を歩く若者たち、恋人同士と見られるカップルの屈託のない笑顔は、長崎の街に原爆が投下されたことなど知らぬげである。

表情が曇ったたとき

 千恵子さんの表情が曇ったたのは、海に浮かぶ海上自衛隊の軍艦を見たときだった。軍備放棄を誓ったはずの日本が、十年にしてはや軍艦をもったのである。いまでは、そのときと比較にならない軍事大国にまでなっているのだ。わけ知り顔の"現実論"の横行に、僕はほとんど絶望的になっている。


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