1999年5月3日付け THA SHAKAI SHIMPO
弱者救済のための憲法
僕は率直に言って、多数の日本人に絶望しかかっている。日本人は初っから、理想とか理念とかの持ち合わせがないのではないか。
作家の故山口瞳が書いている。「日本の歴史の教科書に、弱い者のために闘って犠牲になった偉人が出てきますか。せいぜい千葉の佐倉宗吾くらいでしょう。そんな国、ぼくは愛しません」と。
憲法は国民の理念である。交通法規並みに、目先の現実でころころ変えるべきものではない。為政者がその国の憲法を侮辱して平気でいる国が、ほかにあるだろうか。平和憲法を、口を開けば、アメリカの押し付けだと言っている。いまさら何を言っているのか。第九条があったって、現に世界第二位の軍事力を持っているではないか。その気になれば、いくらでも軍備を増やせるのだ。憲法を''改正''しないとできないのは、徴兵制度である。それが狙いなのは明らかなのに、そのことには一切触れない。ごまかしである。
ウソ八百の大本営発表を垂れ流しにした大新聞が、敗戦後も社名をそのままにしているのは、日本人の気質をよく表している。それが、日の丸、君が代にも通じているのだ。日本の文化は恥を知る文化であるというのは、大ウソである。「人権屋」なる言葉を生みだしたのは、おそらく日本だけであろう。
法は弱者への救済のため存在するものである。支配するための枷では決してない。これが民主主義の理念であることを、多くの人は分かっていないのではないか。だからこのごろ、「公」ということをやたらと言いだすのが出てきた。体制に逆らうのは非国民だという。理念について、小さな例を一つ挙げてまう。
何年か前、神戸で「校門圧死事件」が起きた。このことで、世の識者といわれる連中が校則の是非について論じ合っていた。何も分かっちゃいない。大切なことは、教会、寺、学校などは、初めっから門を閉めてはいけない所なのである。