早川書房「悲劇喜劇」1998年11月号『特集・男優の図書館』より、
「コメディアン」
この稿を書くにあたって、大した量もない本棚をいくら探してみても、その本は見つからなかった。誰かに貸してそのままになったのか、さっぱり記憶がない。もう何十年も手に
取ったことがないのだから、今更仕方のないことである。
フランスの名優、ルイ・ジューヴェが書いた「演技論」である。訳者の名も、出版社名も忘れてしまっている。
ルイ・ジューヴェといえば、戦後、フランス映画に熱中した世代にとっては、なつかしい俳優である。細身で背が高く、両腕をだらんとさせたまま顎をつき上げるようにして歩き、あのギョロッとした眼がこっちを見ると、観客は威喝されたような気分になったものである。ジューヴェが出た映画、「女だけの都」「北ホテル」「舞踏会の手帖」と思い浮かべると、一九三三年生まれの僕なんか、それだけで青春への回帰に酔ってしまう。
大阪の高校時代から新劇俳優を志していた。やがて東京に出て、すぐにそれは挫折してしまったのだが。
その頃にたまたま書店で見つけたのが、その「演技論」だったのである。
別段おもしろい本ではなかった。俳優の演技は如何にあるべきかと、何やら抽象的な表現で、修身教科書みたいな内容だったように思う。それでもただ一つ、何十年も読まないで放っておいたのに、僕の脳裡に残って引きずってきた事柄があった。そのことが今では僕の芸における指針になっている。
そのことというのは、この本を読み始めた頃、僕自身も若かったせいもあって、よく理解できない叙述があった。
文章の段落ごとにしばしば、コメディアンという言葉が出てくるのである。”コメディアンたる者はそういうことをしない”だとか、”それはコメディアンとはいえない”という風に、コメディアンを肯定的に述べているのだ。われわれは、コメディアンといわれれば喜劇俳優を想定する。当時の僕は日本ならエノケン、外国だったらボブ・ホープを思った。
あれ?この本は通常の俳優演技論ではなく、喜劇俳優について書いてあるのか、初めはそう疑ったのだが、文脈から判断すると、ここにあるコメディアンというのは、どうもわれわれが考える喜劇俳優を意味しているのではなさそうである。第一ルイ・ジューヴェは喜劇俳優ではない。彼の出てる映画を観て笑ったという記憶がない。
ちょっと分からなかった。そして彼は、表面的な演技しかできない俳優のことを、つまりいうところのタイプ役者のことを否定的に”それはコメディアンではなくアクトゥールである”という言い方をするのである。
アクトゥール。それは英語のアクター(俳優)のフランス語読みではないかと、僕の浅い知識は解釈するのだが、それでは”それは俳優である”と否定的に言うのはどういうことなのか。コメディアンの対語がアクトゥール。くり返し読むうちに、コメディアンは俳優の理想像であり、単に職業的俳優のことをアクトゥールというのだと解釈できるようになった。そういえば、フランスの国立劇団である「コメディ・フランセーズ」は喜劇専門というわけではあるまい。コメディの概念がわれわれとは違うようである。
早々に演劇から離れた僕はいつしかこの本は忘れ、本棚からも消えてしまった。
そして長い芸遍歴を経て、十五年ほど前からようやっと、自分の芸に落ちつく場を得た。それと平行しながら、運命は再び僕を演劇に呼び戻し、五年前から喜劇を書くようになり、これまで六本上演してきている。
ずっと潜在していたのか、芸を続けているうちにルイ・ジューヴェのコメディアン論がもたげてきた。彼のいうコメディアン、あるいはコメディというのは、人間を典型的に表現することであるということが、体験的に分かってきた。
それでは典型とは何か。端的に言うと、表れるものは特殊で、伝わるものに普遍性があることだと、僕は考えている。その特殊な表現をみつけることが大切である。
例をあげて具体的に言ってみよう。僕はサルの演技を得意にしている。サルが示す様々のポーズや動きの中で、何がサルの典型と考えるか。僕は観客に背を見せたままでひょいと椅子に跳び乗り、後をふり向くのである。そこで観客はドッと笑う。それが最もサルらしい表現だと、観客の潜在意識にあるのだ。つまり普遍性である。よくやりそうな、のみを取ったり、お尻をかいたりの類型的演技では、観客は決して笑わない。
芸人も俳優も根は同じである。典型を見つけるためには、その対象をよく知らなくてはならない。より知ろうとする行為が愛である。それがコメディアンの資質である。
現状は、愛のない「笑い」が多すぎやしないか。(了)