おやじの背中(1993.9.20)
時代に乗らず? 時代に乗れず?
おやじの家は代々、朝鮮・済州島で里長(村長)をしていました。日韓併合で没落し、「お前たち朝鮮人も努力すれば出世できる」という日本人の言葉を信じて、十七歳で猪飼野(大阪市生野区)に来たわけですが、苦労していました。バフ研磨の職人から独立しましたが、戦時中、徴用工に取られたこともついてなかった。
朝鮮人が多く住んでいた猪飼野で、私ら子供はみんな親のことを恥じたもんです。朝鮮なまりがあって、字も続めない。その中でおやじは学があり、新間だって取っていた。役所に出す書類なんかも代筆しでやっていた。なまりのない日本語を話せるおやじが、内心得意でした。いま思えば恥ずかしい誇りですが。
おやじは戦前、朝鮮人を同化させようとするお仕着せの融和団体に、絶対加わらなかった。戦後は、祖国独立の機運が盛り上がり、在日朝鮮人連盟の役職に誘われたが、断っていた。闇(やみ)商売でのし上がることもせず、研磨の仕事をささやかに再開しました。
民族学校に進むのが当然と思っでいた私に、おやじはこう言いました。「負けたら負けたで、日本人はきっとうまいことやりおるねん。十年たったら、焼け野原なんかなくなる。お前は日本人の中学校へ入って、もっともっと勉強せえ」
あの混乱のなかで、平静に冷徹に、世の中を見ていたんですね。
そう言うと、二つ下の弟は「兄貴はおやじを美化しすぎる。おやじは気が小さい、ただの臆病者なんや」と反発します。いまは弟の方が正しいかな、と思うんです。私がそんな父親だから、わかる。
私にも息子二人と娘がいますが、同じように長男より次男の方が私に厳しい。十年ほど前、いきさつがあって日本籍に帰化したことを次男は今も「なんで妥協したのか」と非難します。
おやじは脳出血で倒れ、わずか四十歳で亡くなりました。運のないかわいそうな人だったと思う。でも、四十歳のときの私はといえば、キヤバレー回りの毎日で、「これから売れるでえ」なんで意気がってたわけだから。おやじほどの貫録はなかったなあ。
映画全編をひとりで演じ、語る「スクリーンのない映画館」を続けていますが、最近は山田洋次監督の「息子」をやっています。映画で三國連太郎が演じる父親は、いかにも不器用で頑固。岩手の田舎から出で来て長男が住む千葉の高層マンションを訪れるシーンで、何とも居心地が悪そうです。時代の流れに安易に乗ろうとしなかったおやじの姿と重なります。