「犀せい」で 1993.5.1
「金沢ジァン・ジァン」公演をプロデュースしてくれている村井幸子さんは、元新間記者で、
いまは金沢市片町に、茶房「犀せい」を経営している。四十代後半の、実にさわやかな女性である。
公演は、「香林坊109」の小ホールで行われ、終演後「犀せい」に集まって酒を飲むのが習わし
になっている。これが楽しい。
四年前のことだが、ここで不思議な女性に会った。そのときは、映画再現芸でここで「ゴッドフ
ァーザー」を演じた。終演後の「犀せい」で、カウンター席のとなりにいたのがその女性である。
黒髪を肩まで流し、切れ長の、射るような眼をした美女だった。歳は三十七、八というところか
、背が高く細身である。
「どうしてあんなに手がきれいなの」
彼女は低い声ですうっと話しかけてきた。「ゴッドファーザー」の演技のことを言ったのだ。
もちろん手そのものではなく、手の動きを言っているのはわかる。
「まあ、若いころ少し踊りの勉強をしたから」
途端に、パシッと彼女の手が僕のひざに鳴った。
「どうしてそんな平凡なこと言うの」
まったくその通りである。われながら、つまらん返事をしたものだと恥じた。それにしても、
いきなり男のひざを叩くなんで、なんだろうこの女はと、僕は強い興味をいだいた。それから
も彼女は水割りを飲みながら、僕をのぞきこむようにして話しかけてくる。くわしいことは忘
れたが、「あなたはこれこれでしよう」と、僕の性格を評したように思う。
「ええ、女房にもよく言われます」
またもや、パシッときた。
「旅先にきてまで、奥さんの話を出すことないでしょう、つまらない」
彼女かなり酔っている。気がつくと、カウンターの中には村井さんがいるだけで、店には誰もいなくなつていた。
「ねえ、浮気したことがある」
誘うような彼女の言葉に感わされ、さてこれからどうしようかと、アホな算段をしている僕を見すかしたかのように、
「もうおそいから、マルセさんをホテルまで送りましよう」
村井さんが言った。妙な空気を感じとったのだろう。何のことはない、男が女に守られて夜道を送られたのである。
翌年の金沢行きに、またその女性に会えるだろうとひそかに期待した。僕は彼女が「犀せい」の常連客だと思っていたのだ。ところが村井さんは知らないと言う。三回ほど誰かに連れられできたが、そのたびに名乗る名前もちがう怪しげな女だったと。僕が会ったとき以来一度も姿を見せていない。"いずこの女(ひと)か"そんな風に呼び合って、僕たちはうわさした。
先月の二十日、金沢へ行ったとき、やはり「犀せい」で常連客にその話を聞かせたら、新田さんという住職が、その女のことはよく知っていると言う。聞いて僕も村井さんも信じられなかった。
男だったのである。