それは私です。

(1993.3.10 (1993.3.10  「室内」)

 むかしは旅の列車の中で、たまたま隣り合った、あるいは向かい合った席の見知らぬ同士が、話しかけたり、かけられたりする風景がよく見られたものである。いまではほとんどない。蒸気機関車の消滅と共に消え去ったものか。

 そんなことに郷愁を感じているのも、僕はまもなく六十歳になるが、われわれ年代限りであろう。もっとも若い人たちに言わせれば、他人から話しかけられるのは煩わしくてかなわない、といったところかもしれない。

 先日の夜、大阪から東京に帰る新幹線の車中でおもしろい人に遭った。

 同年代に見うけられるその人は、三人掛けの窓際の席にいて、僕の席は通路側で間は空席である。車内に乗りこんだときから、その人は僕の注意を引いた。あきらかに、“鳶のひと”とわかるいで立ちであったからだ。それも並ではない。一分のすきもなくきまっていた。

 色白のきりっとした顔立ちで、薄くなった白髪頭は短く刈りこんである。小柄だが筋肉質の体格に、絞り染めの半袖シャツ、ひざのあたりで太くなったズボンが脛の上部で締まっていて、足にぴったり、ふくらはぎまでの深い革製の直足袋できめている。おかしいくらいにそれは“いなせ”で、若いころ観た新派の舞台を思わせる。

 京都を過ぎたあたりで僕は席を立ち、びゅっへに行って、缶ビール、ミニサイズ瓶のウィスキーと弁当を買って席に戻った。上着を脱いで間の空席においたとき、やはりそこにおいてあったその人の小さなバッグにかかったので、失礼と目で言い上着をわきに寄せた。その人も、いやいや構いませんという目で小さく笑った。瞬間、この人は話したがってるなと感じたが、そのままに僕はビールを飲みはじめた。名古屋を過ぎたころには、弁当も食べ終えた。しばらくして車内販売が通りかかると、「ねえさん」と呼びとめて、その一つを僕に差し出した。

「いや、あなたがうまそうに飲んでらっしてるのを見ましてね」

「これはどうも」

 遠慮なく頂戴した。やっぱり話したがっていたのだ。僕がその人のいなせな作りに世辞を言ったら、相好をくずし名刺をくれた。思ってたとおり鳶職である。いかにもそれらしい書体で小山某とあり、住所は日本橋浜町である。「江戸っ子」だ。親代々からの稼業で、頭と呼ばれてるらしい。僕は名刺をもたないことをことわり、芸人であると名乗った。もちろん僕の名を知るはずがない。

 すると小山さんは「そうですか」と、したしみをこめて感じ入り、あらためて僕のことを「師匠」と呼ぶのがおかしかった。同じ町内に、江戸家猫八さんがいて、付き合いのあることや、ことに玉川スミさんとは、むかしからのひいきで、浅草演芸場によく花を贈ったなどと、僕の知ってる芸人の名前が次々と出てくる。なかなかの通である。八年ほど前につぶれた、いわば僕らの拠点であった浅草演芸場は、こういった下町のファンで支えられていたんだなと、あらためて思った。

 話がちょっと途切れそうになったとき、小山さんは言った。

「そう言や、なんて言いましたかな。サルの滅法うまい芸人がいましたね」

 やっと出てきた。

「それはわたしです。マルセ太郎です」。


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