売れたよ

1993.4.24

 

 昨年の十一月小著「芸人魂」(講談社刊)が出た。初めてのことで、僕には思いもかけなかった出来事である。元来、書くことは苦手で、日記はおろか、仕事上のメモさえ、ほとんどとったことがない。はがき一枚書くのも苦労する。だから、本を出そうなんて考えは全くなかった。第一、そんな話を持ち込んでくる出版社が現れようとは、想像も出来なかつた。

 それが出せた。本が出るまでの事情はここでは省くが、いずれにしても永六輔氏が仕掛け人である。ありがたいことだと、いまも感謝している。  

 一年がかりで原稿を書きあげ、いよいよ発売の予定日を知らされると、それまでの謙虚な気持ちはふっとんで、あらぬ皮算用にふけった。ちょっとでもいい話があると、すぐに舞いあがる癖は、若いときから変わらない。

 「芸人魂」が新聞広告に出たときは、これまでに経験したことのない興奮を覚えた。そしで急に心細くなった。もう自分の手が届かないところで、事は進行し始めでいるのだ。今更どうにもならない、そんな気持ちである。

 発売されてから一週間ほどは、本屋をのぞくことが出来なかった。知られた顔でもないのに、あいつ偵察にきたなと見られやしないかと、妄想するのである。やっと本屋をのぞけるようになったときは、自分の本をおいていないと、「なんだこの本屋は。おいでないじやないか」と不満を持ち、おいてあると、「なんだ売れてないのか」と不満を持つ。うちの事務所で経理をやっている今野さんという人がいる。六十過ぎだが、五十歳まで芸人をやっていた。今野さんは大変本好きである。「芸人魂」の出版を喜んでくれ、通勤途上、何軒かの本屋をのぞいてくれていた。今野さんは、小田急線町田から新宿に出て、事務所のある地下鉄丸ノ内線の東高円寺まで通っている。地下鉄新宿駅の西口側改札口近くに、ブックスタンドが向かい合って二軒ある。どちらも文庫本、雑誌で、単行本は階段を上がったところのスタンドに行かなければならない。今野さんはそこで、「芸人魂」が三冊並んでいるのを見つけた。それから今野さんは、通勤の行き帰りにわざわざ階段を上がつて、本が売れたかどうかを見てくるのだ。三、四日の間に二冊は売れていたらしい。

 一冊だけが残った。今野さんはその一冊が売れるまではと、階段を上がる寄り道を続けたが、これがなかなか売れない。意地のように居座っている。何かの用で僕は事務所に行き、同じ小田急なので今野さんと帰りを一緒にした。新宿で「ちょっと寄って見よう」と今野さんが秋田訛りで言ったので、僕もそのスタンドをのぞいたが、「芸人魂」は依然としてあった。他の本にはさまって、お茶をひいた芸妓のようである。

 それから半月ほどたって、今野さんから電話がかかってきた。「マルセさん、売れたよ。あの一冊売れた」

 今野さんの声は、ほとんど叫んでいた。


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