マルセ太郎のスクリーンのない映画館
黒澤明監督「生きる」
1999年2月24日 於:クーニーズガーデン・ミントンホール(福山)
その(1)

では、ただ今から、スクリーンのない映画館、黒澤明監督の「生きる」の上映でござ
います。
この映画は先ほど言いましたように、1952年に封切られました。ですから、映画はモ
ノクロです。カラーではありません。この映画の冒頭のシーンはいきなり画面一杯に
レントゲン写真がバーッン。そしてナレーションがはいります。「これはこの物語の
主人公の胃袋である。幽門部にガンの兆候が見られるが、本人はまだそのことを知ら
ない」
実に鮮やかな導入です。もう、いきなり問題の核心に入っている。主人公はガンだ。
この主人公、渡辺勘治をあの、志村喬が演じていることは、もうすでに、皆さんご存
じのはずです。これからの話は主人公だけを渡辺勘治という役名で、まわりのおもな
る登場人物はみんな俳優名でやっていきます。とはいっても、どれだけの名前を皆さ
んご存じかね。これから出すすべての俳優の名前を「うん、知ってる、知ってる。知
ってる、知ってる」と言ったら、もうおよそ80近いでしょう。知らなくてあたりまえ
です。まあ、ともかくそのようにやっていきます。
主人公渡辺勘治はある町の市役所の市民課課長です。勤続30年、どこにでも見られる
下級官吏の一人で、何の特色もない。平々凡々と、これまで生きてきた。ただ役所に
来て、与えられた仕事を機械的にこなしているだけの、面白味のない男です。その日
もその日とて・・・《書類を処理するのをくり返す動作》
その市民課のメンバーを紹介しますと、係長に黒澤映画ではおなじみの藤原釜足。主
任に山田巳之助、千秋実、日守新一、田中春男、左ト全、そして紅一点、小田切みき。
これだけでも、えーっ?と思うでしょ。その一番若い小田切みきというのは、当時、
俳優座から抜てきされた新人です。ぷりぷりとよく太っていて、大きな目が屈託のな
い明るさがあってですね評判になりました。今、新派の安井昌二の奥さんです。
市民課のカウンターの上、窓口のところに1枚のポスターがはってある。そこにこう
書かれてあります。「ここは市民の皆様と直結する窓口です。皆様の市政に対するご
意見、ご不満、ご希望、何でも遠慮なくお申し下さい」って書いてある。
そして今しもですね、いかにも長屋のおかみさん然とした女達4・5人が、係の田中
春男を相手に何やら訴えています。

マルセ太郎のスクリーンのない映画館
黒澤明監督「生きる」
1999年2月24日 於:クーニーズガーデン・ミントンホール(福山)
その(2)

季節は夏でした。当時アッパッパと呼んでいました簡単服を皆着てます。
頭からこうスポーンとこう着るワンピースみたいなものです。
そのなかで一番年の若い、背中に赤ん坊をおぶったお母さん、
この人が今の菅井きん、ほとんど変わっていません。
「この子なんかさあ、肌が弱いでしょ。だからあそこのとこのドブ水にかぶれて、
もう身体中がぶつぶつだらけなのよ」
「それにさあ、あそこの水のねえまあ臭いったらないんだよねえ!
いっぺん来てみて下さいよ、ええー」
「まあ、もう、蚊がわいて蚊がわいて。あそこのドブ水をうめたてたら、
子どもたちの、いい公園か何かできるんじゃないでしょうか。お願いしますよ」
「ちょっとお待ち下さい。・・・
課長、あの、黒井町の下水だまりの件で陳情に来ておりますが。」
「(書類をめくるのをくり返す動作をしながら)土木課」
「その件でしたら、土木課のほうへどうぞ。8番の窓口です」
言われておかみさん達は、土木課の方へ。

途端に小田切みきが何やら紙きれを見て、ケラケラッと派手に笑いだす。
係長が「君、何だ、勤務時間中に!」
「だっておもしろいんですもの。これ、誰か回してきたんです」
「何だ?」
「嘘クラブです」
「読んでみたまえ」
「いいんですか?
“君一日も役所を休まないんだってね”
“うん”
“君が休むと役所が困るというわけか”
“いや、ぼくが休んでも、役所が全然こまらないということがわかると困るんでね”」

課の者は一斉に渡辺勘治の方を見る。
渡辺勘治はまるで聞こえなかった風に・・・《書類をめくるのをくり返す動作》
そこで又ナレーションが入ります。
「これじゃだめだ。ああ、お話しにならない。彼には生きた時間がない。
一体これまで彼は生きてたのか。彼はまさに、生ける屍である」
今になってみると、このナレーションはちょっときついですね。
ええー、考えてもみなさい、別段特別な人じゃない、
どこにでもいる平凡な下級官吏の一人。だからといってその、
生ける屍と決めつけるのはちょっと傲慢な感じがしない訳ではありません。
黒澤がまだ若かったからでしょう、ええー。


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